快適な技術は、もっぱら享楽を旨とする、食卓を囲む一座の人達に満足を与える感覚的刺激はすべてこのたぐいのものである。例えば、お客の興がる話をして如才なく座を取りもち、食卓仲間が心おきなく活溌に談話を取り交わすように仕向け、また諧謔や笑いをまじえて座中に一種の陽気な気分を醸し出すような技術がこれである。こういう場合には−−よく言われるように、−−いろいろなことをうっかりしゃべってしまうということもある、しかし誰ひとり自分の放言に責任をもつ積りはない、このようなおしゃべりはまったく一時の座興であって、それがあとあとまで尾をひいて反省の種になったり、或はまた蒸し返されるということがないからである。(お客達の享楽に備えて食卓に料理を按排する仕方や、また大規模の宴会なら食事の際に演奏される音楽もこのたぐいのものである。こういう場合の音楽がまたいかにも不思議である、これはまったく快適な騒音として、一座の人達の気分を盛り上げることだけしか目的としていないのである、それだから誰ひとり楽曲などにいささかも注意を払うわけではない、結局かかる音楽は、隣席の人との自由な会話に便宜を与えるというにすぎないのである)。
カント『判断力批判(上)』(訳:篠田英雄 岩波文庫 青 625-7)より
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↓ではなく、字義通りの非常に低い次元で。
※アラン・ソーカル&ジャン・ブリクモン
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