Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

三島由紀夫の風景描写 → 〈私〉の代理表象 → ゆえに駄目?

>>>ある種の写真(写真展)を見てたまに思い浮かべること
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060105#p8
以前は、クリアカットすべき事柄だと捉えていましたが、
昨晩の林道郎さんと甲斐義明さんの話もふまえつつ、
その有効性と無効性を再考すべきかもしれません。


◇ ◆◇◆小説をめぐって(2)—— 〈私〉の濃度◆◇◆「新潮」2004年1月号掲載 - 保坂和志公式ホームページ「パンドラの香箱」

私は長い土手を伝って牛窓の港の方へ行った。土手の片側は広い海で、片側は浅い入江である。入江の方から背の高いあし蘆がひょろひょろ生えていて、土手の上までのぞいている。向うへ行くほど蘆が高くなって、目のとどく見果ての方は、蘆で土手が埋まっている。
片方の海の側には、話にきいたこともない大きな波が打っていて、崩れるときの地響きが、土手を底から震わしている。けれども、そんなに大きな波が、少しも土手の上まで上がってこない。私は波と蘆とのあいだを歩いて行った。
しばらく行くと土手の向うから、紫の袴をはいた顔色の悪い女が一人近づいて来た。そうして丁寧に私に向いてお辞儀をした。私は見たことのあるような顔だと思うけれども思い
出せない。私も黙ってお辞儀をした。するとその女が、しとやかな調子で、ご一緒にまいりましょうと言って、私と並んで歩き出した。女が今まで歩いてきた方へ戻って行くのだから、私はあや恠しく思った。ちょうど私を迎えにきたようなふうにものを言い、振舞う。しかしともかくもついて行った。女は私よりも二つか三つ年上らしい。(A)


幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。
私の生れたのは、舞鶴から東北の、日本海へ突き出たうらさびしい岬である。父の故郷はそこではなく、舞鶴東郊の志楽である。懇望されて、僧籍に入り、へんぴ辺鄙な岬の寺の住職になり、その地で妻をもらって、私という子を設けた。
成生岬の寺の近くには、適当な中学校がなかった。やがて私は父母の膝下を離れ、父の故郷の叔父の家に預けられ、そこから東舞鶴中学佼へ徒歩で通った。
父の故郷は、光りのおびただしい土地であった。しかし一年のうち、十一月十二月のころには、たとえ雲一つないように見える快晴の日にも、一日に四五へんもしぐれ時雨が渡った。私の変りやすい心情は、この土地で養われたものではないかと思われる。
五月の夕方など、学校からかえって、叔父の家の二階の勉強部屋から、むこうの小山を見る。若葉の山腹が西日を受けて、野のただなか只中に、金屏風を建てたように見える。それを見ると私は、金閣を想像した。(B)


いまは著書はどうでもいいことにして、引用した(A)と(B)では、書かれていることと〈私〉との関わりがかなり違っている。(A)は〈私〉が遭遇したことを書いていて、(B)は〈私〉の生い立ちないし成り立ちについて書いているのだから、違うに決まっているのだが、「一日に四五へんも渡る時雨」が「私の変りやすい心情」と結びつき、「若葉の山腹が西日を受けて」いるのをただ見ることができずに金閣を想像してしまう〈私〉の作品世界への関わりはいかにもうっとうしい。
(B)はもちろん三島由紀夫の『金閣寺』の冒頭部分だが、この小説から、〈私〉から離れた描写や記述を探すのは難しい。たとえば次の箇所。


十三世紀に吉野山の桜を移植したと云われる嵐山の花は、すでに悉く葉桜になっていた。花季がすぎると、花はこの土地では、死んだ美人の名のように呼ばれるにすぎなかった。
亀山公園にもっとも多いのは松だったので、ここには季節の色が動かなかった。大きな起伏のある広大な公園で、松はいずれも亭々と伸び、かなり高くまで葉をつけていず、こんな数しれない裸の幹が不規則に交叉していて、公園の眺めの遠近の感じを不安にしていた。
登るかとおもえば又くだ降る広い迂路が公園をめぐっており、あちこちに切株や灌木や小松があり、巨岩が白い岩肌を半ば土に埋めているあたりに、べに紅むらさき紫のさつき杜鵑花の夥しい花々が咲いていた。その色は曇った空の下で、悪意を帯びて見えた。


すぐに目につくのは、「公園の眺めの遠近の感じを不安にしていた」というところと、「その色は曇った空の下で、悪意を帯びて見えた」という二箇所だが、「死んだ美人の名」と「数しれない裸の幹」と「白い岩肌を半ば」が対応しているように見えなくもなかったりして、全体に抜けが悪い。視界の先に広がっているはずの風景が〈私〉の側にどんどんたぐりよせられて、嫌な色に染められていく感じがする。
三島由紀夫は垂れ流し的に自分を書く私小説作家と違って、たしかに技巧に富んだ書き方をした人なのだろうが、すべての技巧(技術)を自由自在に使える小説家というのは存在しない。使える技巧は小説家それぞれに限りがあり、その技巧の使える場所や技巧が向かう方向も限られている。だから三人称小説の『豊饒の海』でも、前述の亀山公園の風景をああいう風にした書き方は基本的に(驚くほど?)変わっていない。次の引用は『春の雪』冒頭部分で日露戦争の戦死者の弔祭の写真を説明する箇所だ。長くなるので中ほどだけにする(文庫で入手可能なので『金閣寺』同様、文庫の表記で引用する)。


前景には都合六本の、大そう丈の高い樹々が、それぞれのバランスを保ち、程のよい間隔を以てそびえ立っている。木の種類はわからないが、亭々として、梢の葉叢を悲壮に風になびかせている。
そして野のひろがりはかなたに微光を放ち、手前には荒れた草々がひれ伏している。
画面の丁度中央に、小さく、白木の墓標と白布をひるがえした祭壇と、その上に置かれた花々が見える。
そのほかはみんな兵隊、何千という兵隊だ。前景の兵隊はことごとく、軍帽から垂れた白い覆布と、肩から掛けた斜めの革紐を見せて背を向け、きちんとした列を作らずに、乱れて、群がって、うなだれている。わずかに左隅の前景の数人の兵士が、ルネサンス画中の人のように、こちらへ半ば暗い顔を向けている。そして、左奥には、野の果てまで巨大な半円をえがく無数の兵士たち、もちろん一人一人と識別もできぬほどの夥しい人数が、木の間に遠く群がってつづいている。


これは写真にうつった風景だが、ともかく風景を風景としてただニュートラルに描くことができず、「悲壮に」「ひれ伏している」など人間を書くのと同じ言葉が使われ、兵士たちもただ下を向いているのではなくある種の判断なり心情なりを含んだ「うなだれている」と書かれることになる。簡単に言ってしまえば「仰々しい」ということだが、こういう風に仰々しく書かれたものしか「文学的」と感じない人がたくさんいることはまちがいない。
しかし、とにかく私は三島由紀夫が好きではない。文章というのは特徴をいくら指摘してもわからない人にはわからないだろうし、私自身このように具体的に指摘できる箇所によって三島由紀夫の小説・文章が嫌いなわけではなくて、匂いとか肌ざわりのような漠然としたところでまず好きになれないのだが、三島由紀夫の文章を批判するためにこれを書いているわけではない。
わかってもらいたいのは、ここにある〈私〉と書かれるものとの関係、書かれるものに及ぼされている〈私〉の濃度のことだ。これは当然、三島由紀夫に個別の問題では全然ない。小説は、
往々にして〈私〉が感受したものとして世界が描かれていくものなのだ。そしてついさっき書いたばかりのことの繰り返しになるが、そういう風に書かれたものだけに文学性を感じる人
が、読者にも書き手にもいっぱいいる。

かなりはっきりした身体的特徴というか欠陥だが、ずいぶんあっさり書かれている。三島由紀夫だったらもっとずっと大仰に、ないしえげつなく書いただろう。作家のような目で見ていないと言ってもいいかもしれない。これが仮りに若手作家の書いたものだとして、大仰なことが文学だと思っている文学信奉の編集者が読んだら、
「君、こんなことしか感じなかったのか? 気の毒だとか、たまに不快を感じたとかじゃなくて、もっと激しい嫌悪感なり何なりを感じたはずじゃあなかったのか?」
とでも言いそうだ。
生誕百年であちこちで小津を賛美している一方で、小津が嫌った大仰さが相変わらず求められている。
それはともかく、小津安二郎が好きで読んだ小説の感じが少しわかってきた。もっとも小津安二郎についての話題自体が本筋から外れていたというかこのエッセイの補足的なことだったのだが、里見_や広津和郎の文章を実際に引用して読んでみると、本筋に戻っているようでもあることだし、このままつづけていくことにする。
『晩春』の壺を、映画の筋や人物の心理を補完するものでなく、「ただそこにある」という風に考えることにすると書いた方の話に戻ると、小津の映画ほど、ほんの数秒(ないし一、二秒)映される風景を見て、「ああ、こういう風景が本当にあったんだなあ」と強く感じられる映画はないような気がする。

http://www.k-hosaka.com/nonbook/megutte2.html


◇ ◆◇◆小説をめぐって(三) 視線の運動◆◇◆「新潮」2004年3月号 - 保坂和志公式ホームページ「パンドラの香箱」

ぱらぱらぱらぱらとページをめくりながら、数日あちこち拾い読みしているうちにだんだん気が重くなってきて、そのうちに、文学史に義理立てして小説について考えるのがこの連載の趣旨ではなかったことに気がついた。三島由紀夫の作品世界を成立させている押しつけがましい〈私〉がどこから生まれてきたのかということや、三島由紀夫の〈私〉が現在の日本の小説の〈私〉のあり方にやはりかなり影響しているらしいことや、私小説の〈私〉は三島由紀夫の〈私〉のようには押しつけがましいものではなかったのではないか、というようなことは、この連載でいずれ話題にする可能性が高いとは思うのだが、いまはその話題に入るときではない。

小説とは、「私とは何か」「私がどういうもので成り立っているのか」「私がどういう世界にいるのか」という、それらの問いをテーマとして書く表現形態ではない。
テーマとして書きたければ書いてもかまわないが、それに先立って、あるいはその基盤として、〈私〉にかかわる問いがすでにディスクールに埋め込まれているのが小説だ。
と、断定的に書いたけれど、このことを実際に書かれた小説を読みながら証拠立てる  ——ないし、発見する———ことは簡単ではない。前回書いた三島由紀夫の「木の種類はわからないが、亭々として、梢の葉叢を悲壮に風になびかせている」「野のひろがりはかなたに微光を放ち、手前には荒れた草々がひれ伏している」(『春の雪』)というような書き方に〈私〉(〈私〉の介入)を発見するのは簡単だけれど、もう一つ引用した内田百_の『花火』の中の私はただその情景の中にいるだけで、私=筆者が問題にしている〈私〉がそこにいるとはいいがたい。
この問題をこのままストイックに考えていても煮詰まって変に極端なことを言い出すのがオチなので、別の文章を見てみることにする。一つ目はチェーホフの短篇『子どもたち』(松下裕訳)の冒頭の段落だ。

いきなり人物名が列挙されていて、次にテーブルの上にある物が書き並べられているという要素の多さがこの文章のわかりづらさの原因で、これを理解(?)するには読みながら、読者の側で、イメージを作り出していかなければならない。三島由紀夫の文章にはこのようなわかりづらさはない。『春の雪』冒頭の、日露戦争戦死者の弔祭の写真の中の情景もまた、映像を文字に置き換えたものだけれど、読みながら自然に理解していくことができた。これもまた前回の引用になるが(今月だけ読む人には心苦しいのだが)、志賀直哉『暗夜行路』の「第二」の冒頭の、船が港を離れていくシーンなどは、それが情景描写であることを気づかせないくらい自然に、抵抗なく入ってくる。

三島由紀夫の「人間化」された情景描写や『暗夜行路』のなめらかで違和感のない情景描写に対して、チェーホフ『子どもたち』の情景描写はほとんど異物のように入ってくる。これは冒頭で、新しい要素が一挙に飛び込んでくるからそうなっているわけではなくて、この短篇全体を貫いている。たとえばこういう箇所———。

〈わたし〉は視線の運動が作り出す空間の中を漂っていて、三島由紀夫のように見えるものを自分の側に引き寄せない。〈わたし〉は見る人で、見ることによって窓ガラスに映った自分のことも発見する。
この小説(190枚)はトルコ〜徳島の民宿〜石垣島と、〈わたし〉がわがままな音生の気まぐれに引きずりまわされる話だが、そういう展開はなかばこの導入部での視線の運動によって用意されている。〈わたし〉は音生のわがままぶりに嫌気がさすこともあるが、なんだかずうっとつき合わされてしまう。〈わたし〉はぶつぶつ文句は言うが行動として発揮するほどの主体性は示さない。「ありきたりな自分探し小説」というような寸評も発表時(「文藝2002年夏号)にはあったらしいが、完全な的外れで、この小説は自分を探しているのではなく、視線の運動によって小説(の将来)を探している。

http://www.k-hosaka.com/nonbook/megutte3.html


◇ 『カルチャー・レヴュー』55号 ■連載「文学のはざま2」第3回■ 小説家保坂和志による渾身の小説論『小説の自由』を読み解きたい!――だけどそれが小説に従属するのだとしたら――村田豪 - culture review

 こんな例からも分かるように、「現前性」の話をしているとき、保坂は二つの表象を区別していることになる。まず当たり前だが、ここでは作者のリアリティ(R)がそのまま読者のリアリティ(R’)へと伝わる(R→R’)などというような単純なことを言っているのではない。では、フィクションとしての作品(F)を通じて、作者から読者にリアリティが受け渡される(R→F→R’)というのかというと、これも「第三の領域」を想定できない従来の考え方に陥ってしまう。


 保坂が考えているのは、読み手は(reader=(r))は読み手で、自ら二つの表象を担っているということだ(F→(r)→R)。つまり作品から与えられる言語の内容を抽象として受容する(F→(r))ということ、それを自分の身体性(知覚・記憶)に向けて表象する((r)→R)ということに分かれているのだ。そのズレながら同時にある二つの過程があってこそ、作品はリアリティとして感じ取られることになる。だから、三島の悪い手本では、「F→(r)」の過程が観念や比喩の強い磁場にあることになり、それでは次の「(r)→R」の過程で、読み手は「自由」に自分の身体や存在を活用するように開かれていかず、むしろ言語の拘束を受けたイメージを送り出すだけで、その送り出すものもほとんどリアリティとは呼べず、「F→(r)→F’」(F≒F’)として閉じられてしまう、と言いたいのだ。

 この指摘は、すでに書き手の場に重要な問題を持ち込んでいる。書き手(writer=(w))にも二つの表象とその運動がある。それは、現実なりリアリティを感受し(R→(w))、それを言語化する((w)→F)という過程として、つまり「R→(w)→F」としてあらわされるだろう。しかしこれはそう自明ではない。なぜなら「R→(w)」と「(w)→F」の表象の原理は、先と同様に根本的に異質だからだ(保坂は前者を「身体の原理」、後者を「言語の原理」としている)。それなのに、書くという行為においてはどうしても言語の理屈やメカニズムが強まるため、結局「言語のイメージを言語に置き換えるだけ」(F→(w)→F’)のようなことが起こりがちである、と言うのである。以下引用。
 たとえば「秋になって街路樹の葉が落ちてアスファルトの道路の隅に吹き積もり、積もった葉もそのうち風に吹きさらわれるように、彼女からは、僕との夏の記憶は消えてゆくのだろう」というような文は、何も現実との対応を持たず、ほどよくイメージを喚起する言葉をつなげているだけで、ここからは身体と言語とのきしみはまったく聞こえてこない。拡散的注意力はいっさい働いていず、前章の新宮一成の言葉を借りれば、精神の眠りに陥っている。
 この手の文章を編集者、書評家、評論家の中にも「うまい」とか「心地よい」とか褒める人がいるけれど(といっても私が即席にでっちあげた例文はあまりといえばあまりに下手だけれど、こういう文章を考えるのが嫌いなんだからカンベンしてください)、こういう文章を読める人は精神が眠っているだけだ。――なんて批判は書く方もバカバカしくて時間の無駄なのだが、一回ぐらいは書いておいてもいいだろう。というか、言葉の内側にこもってただ練り上げていくだけのこういう文章は、別に村上春樹がはじめたというようなことではなくて、日本の近代文学の歴史を通じて流れつづけてきたものではないかと思うのだ。(『小説の自由』新潮社p174)


 つまり、もともとの理想化された「リアリティの伝達」(R→R’)どころか、われわれがおこなっているのは、ひょっとすると「F→(w)→F’→(r)→F”」つまり「F→F’→F”」という「フィクションの伝達」にすぎないのではないか。こんなふうに非常にまずいことになりかねないのだ。これは純粋に言語の運動でもあり、人間が免れることはないのかもしれないが(シニフィアンの連鎖とか。ちょっとラカンぽい?)、しかし、だからこそ知覚や身体の運動=「現前性」のほうを保坂は重視するわけで、それによってかろうじて小説は、「身体と言語とのきしみ」を持ち込むことができ、リアリティのとっかかりを作ることができるのだ。そして小説がなぜ書かれなぜ読まれるのか、を考える上でも、この「きしみ」が大切なものとなる。


 でも、このような説明は、はたして保坂の言わんとすることにどこまで沿うことになるのか、依然として私には分からない。それに、こうして記号なんか使って理解を助ける(?)ように書くのは、それこそ保坂の考えに大いに反することになるのではないか、そういう危惧もこの『小説の自由』を説明するのが難しいと感じた理由の一つだったのだ。だが、「現前性」という言葉に「ええ!?」となる自分の、ある種の偏ったとらえ方を解こうとして、こういう方法で考えるしかなかったのだから、これはこれでいいと自分としては考えたい。


 だから、保坂の考えていることが「R→F」とあらわされ、私にとって「F→R’」と理解されるとき、私は「R≒R’」であることを信じるが(私は「現前」を信じる!)、しかしこれを今書いているこのような文章でそれを説明する(R’→F’)とき、その説明の内容を理解する(F’→R”)人が、「保坂の言っているのとは違うのでは」つまり「R≠R”」ではないか、というかもしれない。それでも私は「R≒R’」であることを信じ、かつ「R’≒R”」であることを保証する。しかし一番目の「R」と三番目の「R”」の直接の関係を問うことは、私からはできない。これは、まずは読み手で、次に書き手となった私の位置の限界であり、保坂の「身体と言語という異なるもの媒介」という問題を引き受けるとき、これは十分な態度だとも思う。「R≠R”」を主張する人には、またその人なりの「R”→F”」(表現)があらわれているはずである。


 しかしこのことは一般的な原理にすぎないので、これで話が終わるのならたいしたことはない。保坂が考えさせることで一番重要なのは、繰り返すが、このリアリティについての問いが「文学は何のために書かれ何のために読まれるのか」というような大きな問題にまで、にわかにかかわりを持ち始めることだと思う。


 ただしこれについては、私にはもう説明できない。紙幅の問題ではなく、たぶん私の能力として単にできない。やや尻つぼみで申し訳ないが、でも興味のある人は、『書きあぐねている人のための小説入門』が非常に分かりやすく、「何のために小説はあるのか」というについて考察をうながすような具体例がでているので、そちらを読むのをお薦めする。とてもよく考えられて書かれていると思う。

http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re55.html#55-3-1


◇ 『カルチャー・レヴュー』55号(2005.11.01) ■連載「文学のはざま2」第3回■ 小説家保坂和志による渾身の小説論『小説の自由』を読み解きたい! ―― だけどそれが小説に従属するのだとしたら―― 村田 豪 - 評論誌「カルチャー・レヴュー」Blog版
http://kujronekob.exblog.jp/2110424/