Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

ジェイン・ジェイコブス vs クリストファー・アレグザンダー

◇ JJ vs クリストファー・アレグザンダー - ベルリン・レター・パート 2

ジェイン・ジェイコブス(JJ)の『アメリカ大都市の死と生』を、彼女以降の二人の建築家の思想と照らし合わせることで検討します。一人目がクリストファー・アレグザンダー。二人目がレム・コールハース。乱暴にいってしまうと、JJの思想とは「都市の多様性」の称揚と、そのための「高密度」の重要性の強調と言えます。*1

クリストファー・アレグザンダーは、前者に注目し、システムズ・アナリシスの手法を用いて多様性の理論化を試みた建築家です。彼を有名にした「都市はツリーではない」という論文がこれにあたります。

アレグザンダーは、必ずしも高密度には賛成ではありませんでした。JJの主張した、多様性を支える上での「高密度」の重要性はレム・コールハースへと引き継がれ、「過密」というより過激な方向へと向かいます。これは、コールハース出世作『錯乱のニューヨーク』の重要な論点です。

それでは、まずアレグザンダーとJJの分析からはじめましょう。

アレグザンダーは「全てのツリーはセミラチスのごく特殊な一つの場合にすぎない*11」と述べた。しかし、セミラティスもまた、「複雑性」のごく特殊な一つの場合にすぎないことに注意したい。ジェイコブスが考える都市は、アレグザンダー以上に複雑な可能性すらある。この意味で、ジェイコブスとアレグザンダーについての柄谷の比較は重要である。

ツリーの重合であるセミラティスは、超越的な中心をもったネットワーク・システムである。それに対して、多中心をもつリゾームがジェイコブスのとらえた都市である、と柄谷は考察している。この考えには大いに共感できる。『アメリカ大都市の死と生』を読めばはっきりとわかるように、ジェイコブスの求める大都市は、超越した中心からはつくられることがない。それはあくまで多数の個人(たとえば、皆が鍵を預ける菓子屋のジャッフェさん)、複数のハブとなる個人(予想外の人の連鎖を起こす「飛び石人間」)に依拠している。

訳者も指摘するように、『アメリカ大都市の死と生』は「ネットワーク理論にも独力で到達している*13。複雑ネットワークに見られる特徴である「スケールフリー性」「スモールワールド性」などが、彼女の描く都市に見いだされるのだ*14

多様性の必要条件としての「高密度」に注目して、それをさらに推し進めたのがレム・コールハースである。次は、『錯乱のニューヨーク』、『Bigness』と『アメリカ大都市の死と生』の関係を探っていきます。(続く)

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*16:アレグザンダーによる近代都市計画の批判は、「セットの重なり合いの不在」を指摘するだけで十分だったという説がある(大熊康彦「都市はセミラティスではない」)。そして、まさにジェイコブズは「セットの重なり合いの不在」を衝くことだけで、近代都市計画の批判に成功した。

http://d.hatena.ne.jp/masaaki_iwamoto/20100904
岩元真明さんのはてなダイアリーより。


◇ m_iwamoto (m_iwamoto) on Twitter

ジェイン・ジェイコブスとアレグザンダーの比較について小文を書きました。意外にも、議論は今はやりのネットワーク理論へと展開していくのではないかと思います。http://d.hatena.ne.jp/masaaki_iwamoto/20100904

興味がある方はぜひご覧下さい。ちなみに6000字ちかくあるのでちょっと読むのに時間がかかるかもしれません。また、ネットワーク理論など、ネット、10+1など、数少ないソースを元に即席で勉強しながら書いたので、誤りが含まれるかも知れません。ぜひいろいろとご教示下さい。

ジェイコブスと比較することで、「都市はツリーではない」の限界が見えたような気がします。傲慢な言い方をすると。

しかし、ジェイコブスよりもアレグザンダーの方がクリエイティブ(ものつくりをするひと)であるのも事実だと思いました。

http://twitter.com/m_iwamoto


◇ 都市はセミラティスではない - クマのあなぐら
http://orange.zero.jp/kuma.wing/miscellany/semi-lattice.html


※過去の岩元真明さん関連
http://d.hatena.ne.jp/n-291/searchdiary?word=%B4%E4%B8%B5%BF%BF%CC%C0