Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

- texture : ueno osamu

 「意図的に悲惨な光景を探し求めた、偏見に満ちたでっちあげである」。ロバート・フランクの『アメリカ人』が出版当時に受けた評価は、このような弾劾か、あるいは忌避であったといわれている。こういった逸話は、スイス生まれであり異邦人の視点を持ち、放浪によってアメリカの影を露出させたという単純明快なフランク像を得るには充分なものではあろうが、いまなおアメリカ現代写真のはじまりとして記される、ある種のアメリカ写真の伝統をその変形によって受け継いだフランクの存在とその広大な影響力を考えるためには、いささか短絡的にすぎるように思われる。
 たとえばスーザン・ソンタグは『写真論』のなかで、ウォーカー・エヴァンスとフランクを併置しながら、「偉大なアメリカの写真的肖像とみなされる写真は、貧しい人や追い立てられた人たち、この国の忘れられた市民に対する、ドキュメンタリー写真の伝統的な嗜好を反映し続けながらも、わざと被写体を特定しないできた」と、両者の仕事の親近性を述べている。また、50年代以降のアメリカの写真を考察した『アメリカン・フォトグラフィー』の著者ジョナサン・グリーンもまた、ニューヨーク生まれのウィリアム・クラインが80年代に入るまで反発・無視されたのに対し、フランクは真に伝統的なアメリカの写真家として認められてきたことを指摘する。フランクの写真に対して共存するこのような拒絶と承認、伝統の解体と伝統の継承という両義的な側面はいったい何に由来するものなのか。これを考えるとき重要になってくるのが、ビート・ムーヴメントとフランクの連関をみる視座にほかならない。

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◎ texture : ueno osamu
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※過去の上野修さん関連
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