Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

『悔いあらためて』(橋本治・糸井重里) - 偽日記@はてな

ここで若き日の橋本治は、自分がいかに社会に上手く適応できないか、他人から理解されないかを語り、それに対し糸井重里は、その話を最大限の愛情とともに理解し受け取りながらも、冷酷ともいうべき的確な答えを返して行く。このやり取りを読むと、ああこれが「友情」なのだなあと泣きそうにさえなる。橋本氏が、子供の頃真剣に何かを話すときまって「屁理屈を言うな」と言われて、何で真剣に話すと屁理屈って怒られるのか分からないままそれを自分のなかに引っ込めてしまったと話すと、糸井氏はそれに対し、屁理屈って言われるのはそれに「反応してくれない人」がいるからで、「反応してくれる友達」がいればそれは「遊び道具」になると答える。

しかし当時のこの糸井重里の聡明さというのは何なのだろう。この才能は当時から作家(コピーライター)としてのものというよりも明らかにプロデューサーとかオーガナイザーのようなものとして発揮されたのだろう。しかしそれは、80年代には「編集」という言葉が流行り、90年代になって「プロデュース」というような言い方にかわって行くような、何か政治や策略を好む「野心家」ような人たちのものとは少し異なっているように思う。確か「宝島」か何かのインタビューで糸井氏が、自分は電車でたまたま隣り合ったおじさんとかとすぐに仲良くなってしまう特技があって、貧乏な頃はそういう人から仕事をもらったりもした、と言っていたのを読んだ(強く印象に残っているのだが、遥か遠い)記憶がある。つまり糸井氏の聡明さとは、基本的には「好きな事(楽しい事)」をやっているのだが、それをしっかりと(ちゃっかりと)抜け目無く「お金」と結びつけてしまうとか、あるいは、普通だったらあり得ない結びつきを易々と実現してしまったりする(そしてそれをちゃんと「お金」にする筋道を、つまり現実に着地させる筋道を、考える)とか、そういうものとして発揮されるような、鷹揚さやおおらかさと、冷酷さとを併せ持ったような聡明さなのだろう。これは、「徒党を組む」ことと「ケンカをする」ことが大好きな「男の子たち」に最も欠けている聡明さであり、同時に、社交性に欠け、ひきこもりがちで、その足りない分を「自分だけの孤独なの努力(過剰な言語化や体系化、あるいは作品の制作など)」で埋めてしまおうとする(当時の橋本氏のような、そして恐らくぼくのような)人たちにも、決定的に欠けている聡明さなのだろう。つまりそれは、「文化」とか「芸術」とかに関わる(それを好む)多くの人たちに欠けているということだろうと思う。だとしたら、このような資質を持つ「おおらかな媒介者」とも言うべき人こそが、最も生産的な仕事を生む(土壌をつくる)のかもしれない。

http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20050131
古谷利裕さんのはてなダイアリーより。


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