Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

読書録 2001年1月前半 - Line Lab.'s Web Page, East Asian Text Processing

1月14日 東浩紀「日本型ポストモダニズムはなぜ行き詰まったか――ポストモダニズムの『終わり』の先を見る」〔『論座』2001年1月号〕。【近代とは、ごく簡単に言えば、「深層」「深さ」が発見された時代です。……二十世紀の半ばに、近代的なものからポストモダン的なものへと、エピステーメーがふたたび大きく転換したのではないか】として【…僕はここで、フーコーとクレーリーの研究を受けて、近代の文化的論理は「映画」という視覚装置によって象徴されているという仮説を立ててみたい。ではそのうえで、ポストモダン的な深層は、いったいどのような視覚装置でモデル化されるのか。…それはコンピューターのインターフェースでモデル化されると僕は考えています。近代においては、見える世界(スクリーン)の裏側には映写機があります。そこには映写技師(大きな物語)がいて、私たちが日々見ている世界を決定し、ひとつひとつの事件(スクリーンのうえに映っているもの)に意味を与えていました。これが近代的な世界観です。/対してポストモダンの世界観においては、世界の背後にはデータの集積があるだけです。そこでは何の意味も決定されません。世界の見え方を決定し、意味を与えるのは、主体の側の操作になります。……私たちの社会は、基本的なデータとシステムをゆるやかに共有しつつ、そのうえで異なったアプリケーション(小さな物語=趣味の共同体)が同時に複数開いているような、そういう社会になりつつあるように思われます。】と指摘する東は、【ポストモダンにおいては、世界の根拠がデータの集積でしかないように、自分の根拠は記憶の集積でしかありません。そしてその集積は、それだけでは何の意味ももっていません。記憶のある部分を統合すると人格Aが、別のある部分を統合すると人格Bが生まれるのですが、しかしそれでも、別の人格がいつ生まれてくるかもしれない。そんなモデルになっています。/そしてこの全体を統御する映画技師(近代的主体)は、もはや存在しません。人格の切り替えは、誰かの制御で行われるのではなく、ささいな何でもない引き金で起こります。「キレる」というやつです。…いまや多くのひとが自分像を多重人格をモデルにして作り上げようとしている。/多重人格の症例そのものには神経生理学的な根拠がないのかもしれませんが、その流行には、エピステーメーの変化という大きな文化・社会的な根拠があるのです。】とむすんでいる。

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