■I would prefer not to...(バートルビー・シンドローム)
◇ エンリーケ・ビラ=マタス 木村榮一『バートルビーと仲間たち』 - 新潮社
書けない症候群に陥った作家たちの謎の時間を探る、異色世界文学史小説。
一行も文章を書かなかったソクラテス、十九歳ですべての著書を書き上げ、最後の日まで沈黙し続けたランボー、めくるめくような四冊の本を書き上げ、その後三十六年間私生活の片鱗をも隠し続けたサリンジャー……。共通する「バートルビー症候群」を解き明かし、発見する、書くことの秘密。新鮮なスペイン文学最高峰。
http://www.shinchosha.co.jp/book/505771/
◇ エンリーケ・ビラ=マタス『バートルビーと仲間たち』(訳:木村榮一 新潮社)
一行も文章を書かなかったソクラテス、19歳ですべての著書を書き上げ、最後の日まで沈黙し続けたランボー、めくるめくような4冊の本を書き、その後36年間私生活の片鱗をも隠し続けたサリンジャー、ピンチョン、セルバンテス、ヴィトゲンシュタイン、ブローティガン、カフカ、メルヴィル、ホーソン、ショーペンハウアー、ヴァレリー、ドゥルーズ、ゲーテ…。共通する「バートルビー症候群」を解き明かし、発見する、書くことの秘密。書けない症候群に陥った作家たちの謎の時間を探り、書くことの秘密を見い出す―異色世界文学史小説。フランスの「外国最優秀作品賞」受賞作。
http://www.amazon.co.jp/dp/4105057715
http://www.bk1.jp/product/02972137
◇ エンリーケ・ビラ=マタス、木村榮一 訳『バートルビーと仲間たち』|書評/対談 - 新潮社
不思議な「友達の輪」 柴田元幸
容貌も冴えず、もはや若くもない語り手自身のぱっとしない人生の記述にしても、ヌーヴォー・ロマンにかぶれて書けなくなったかつての女友達の話や、ニューヨークのバスの中でサリンジャーを見かけた体験(語り手はサリンジャーに声をかけるか、隣の美しい娘に愛を告白するかで迷いきってしまう)、単に愉快な挿話というだけで済ませられないものを感じる。
これがたとえば、本書と同じく二〇〇〇年に刊行された、ブラジルの作家ルイス・フェルナンド・ヴェリッシモの『ボルヘスと永遠のオランウータン』のように、ボルヘスや探偵小説に対するさほど屈託のないオマージュであれば、安心してニヤニヤしながら読んでいればいい。だがこちらは、扱っている主題自体は、書くことの不可能性、文学に対する根源的な懐疑、といったすさまじく重いテーマである。そして、呑気なゴシップと並んで、たとえばパウル・ツェランの名が挙がり、ツェランが「沈黙と破壊の時代にあって、教養とは無縁な傷口の中を掘り進むことしかできなかった」という指摘とともに、呑気さとは無縁のツェランの詩が引用されていたりもするのである。
要するにこの語り手は、テーマの重みを自明視することだけは何としてでも避けようと思っているように読めるのである。少なくとも僕はそのように読み進んだ。念のため言っておくが、つまらないとか不快とかいうことではまったくない。むしろそれこそがこの作品の妙味だと言っているのである。世間ではとりあえず重たいということになっているテーマに関して、それが本当にどれくらい重たいものなのか、読み手が自分で一から問うよう促すには、重さを自明視したしかめっ面の語り方よりも、この一見おそろしく「適当」な語り方のほうがはるかに有効にちがいない。
http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/505771.html
◇ バートルビーと仲間たち [著]エンリーケ・ビラマタス - 書評 - BOOK - asahi.com(朝日新聞社)
http://book.asahi.com/review/TKY200804290079.html
◇ ジョルジョ・アガンベン『バートルビー―偶然性について [附]ハーマン・メルヴィル「バートルビー」』(訳:高桑和巳 月曜社)
働かないのに事務所にい続ける青年バートルビー
〈する〉ことも〈しない〉こともできるという潜勢力の、西洋哲学史におけるその概念的系譜に分け入り、メルヴィルの小説「バートルビー」(1853年)に忽然と現れた奇妙な主人公を、潜勢力によるあらゆる可能性の〈全的回復者〉として読み解く。
小説の新訳を附す。
http://getsuyosha.jp/kikan/bartleby.html
http://www.amazon.co.jp/dp/4901477188
◇ ハーマン・メルヴィル - Wikipedia
1843年8月、ホノルルにいたハーマンは、アメリカ海軍フリゲート鑑ユナイテッド・ステーツ号の水兵に採用され、翌1844年ランシンバークに帰郷する。留守中に家計もよくなり兄弟も独立していた。暮らしに余裕の出来たハーマンは文筆業で身を立てようと、当時流行していた海洋小説に手を染め、マルケサス諸島の体験を元に1845年処女作『タイピー』を発表。1850年8月、尊敬する先輩格の文豪ナサニエル・ホーソーンと出会う。翌年『白鯨』を発表するなど精力的に創作活動を続ける。だが、諸作品はことごとく評価されず、文筆で身を立てることが出来なくなった。外国の領事や海軍に職を求めるがうまく行かず、生活に追われながら細々と小説や詩を発表する状態が続く。南北戦争についての見聞録「Battle Pieces and Aspects of the War」もある。
1866年12月、ようやくニューヨーク税関の検査係の職を得るも、4人の子供の内、長男マルコムのピストル自殺、自宅の焼失、次男スタンウィクスの出奔(1886年サンフランシスコで客死)などの不幸が続く。傑作『ビリー・バッド』完成後の1891年に死亡。
難解な作風のため、一部の愛好者を除いて無視され続けていたメルヴィルの作品は、死後30年を経た1921年に再評価の動きがおこる。
『代書人バートルビー』"Bartleby the Scrivener", 1853年
存命中は『白鯨』など主な作品はまともな評価はされず、本人はずっと税関で働いて暮らしていた。
エマースンやソロー、ホーソーン、ポー、ホイットマンと並ぶ、アメリカ・ルネサンスの作家の一人とみなされている。古典に岩波新書で酒本雅之『アメリカ・ルネッサンスの作家たち』や近年刊行では『アメリカン・ルネサンスの現在形』(編著 松柏社、2007年)他がある。