Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

渡辺真也さんのツイッターより

◇ Shinya Watanabe 渡辺真也 (curatorshinya) - Twitter

(パ1)チャールズ・サンダース・パースの『連続性の哲学』は、個体の実在を論理的に否定し、全ては連続であると説いた、驚異的な本だ。 http://t.co/atgixmhq 私にはこの本を要約するだけの力量は無いが、そこから考えたことを綴ってみたい。

(パ2)パースの天才は、精神はデカルト的エゴの様に孤立、独立した存在ではなく、互いに連続的に繋がり永遠不滅であることを、形式論理学にて立証した点だ。パースの哲学はナーガールジュナと類似しており、汎神論や並行論を唱えたスピノザさえデカルトの立場に近いと感じられる様になった。

(パ3)現代科学で使われている実証法は全て不完全帰納法であり、いくら証明されてもそれが真とはならず、あくまで仮説のままである。パースは、第5定理で有名なユークリッド幾何学について、ユークリッド自身、単に要請あるいは恣意的な仮定を見なしていたと紹介する。なんという思慮深さだろう。

(パ4)帰納法演繹法による証明にて、実験と観察の観点から捉える時に実際にしていることは、これらの推論のタイプのなかに「仮説形成」と類似したものを認めようとしているのだとパースは説く。この推論は常に、仮説が主題とする事柄に関連した、多くの観察事実を総括することから出発する。

(パ5)その際、観察事実の総括を行い、次に観察するとなるのだが、観察という行為は、経験という不可抗力を前にした、我々の自発的な自己放棄である、とパースは述べる。それはすなわち、「ある観念の側からの自己主張に対する降伏である」と。

(パ6)すると、パースが宣戦布告した相手であるカントの「もの自体」や、アプリオリの例として彼が挙げた、円における中心点から線までの全ての距離は一致するとは、定理の表象として決定するのであればともかく、その定理が経験からなる推論に依拠している時点で、真ではないと言えるだろう。

(パ7)パースは、「理性はその最後の助けを感情に求める」と述べたが、これは岡潔が「矛盾がないということを説得するためには、感情が納得してくれなければだめ/知性や意志は、感情を説得する力がない」と言ったのと全く同じであり、その意味においてカントは感情的だったのかもしれない。

(パ8)さらにパースは、理性はその最後の助けを感情に求めた際、そこから生まれる感情主義が、保守主義を含意することまで看破している。数論の最単純な第一原理から演繹することのできる結論は、あらゆる定義の集合である、という形式論理学的思考から生み出された名解答だろう。

(パ9)驚いたのは、パースは「数多性がその最大の可能性に達すると、その集合を構成する個体同士は互いに解け合い、必然的に連続的になる」「非連続性が観念として存在しないことから、確定的な点も実際に存在不可能」とし、円環を形作る線を切って証明するさまが、仏教の空観とそっくりな点だ。

(パ10)パースは、完全なグラフとなり一個の言明を意味するようになるために、同一性の線を付け加えられさえすれば良い様な部分を「動詞」と呼び、動詞に同一性の線を付け加えることができる場所を「空の主語」と呼んだ。主語の「実在」を否定し「空」とした点は、ナーガールジュナと同じだ。

(パ11)パースは「実在」を仮説的推論とし、何かを知ろうとする際に抱く、絶望的で哀れな希望に過ぎないかもしれないとする。また動詞はそれが取る空の主語の数によって無項、単項、二項、三項などに区別され、無項あるいは非人称動詞は"it rains"の様にそれだけで完結した言明だとする。

(パ12)普通の論理学は、ただ一つの特種な関係、すなわち「類似性」の関係しか考察しないのに対して、パースの「関係項の論理学」は、考察の対象となりうる何らかの関係一般というものを想像する。つまり普通の論理学が類を考察するのに対して、関係項の論理学は仏教の縁起の様に体系を考察する。

(パ13)そしてパースは、世界を主語と動詞で表記した場合、三項以上のあらゆる多項は複数の三項に分解可能だ、という驚くべき定理を掲げ、それを図解した上で論理的に証明して見せる。http://t.co/ufT20e28

(パ14)個々の同一性が失われ連続性が生まれることを、円環を切って証明する方法が、仏教のŚūnyatā(=空)の意味の一つbeginning of the circleの原初的表記で、ゼロ記号を完全な円とせずに隙間を空けて円環を閉じなかった記号に極似していることに気がついた。

(パ15)「真理を学ぶために必要なことはただひとつしかなく、それは真なることを心から積極的に学ぼうとすることである。」真実を積極的に学ぼうとする皆さん、チャールズ・サンダース・パースの声に、耳を傾けてみませんか。

以上、連続ツイート「チャールズ・サンダース・パースの『連続性の哲学』から考えたこと」でした。長文拝読して下さり、ありがとうございました。

「真にアートヒストリーを行うのであれば、デカルト以前のヨーロッパにおいて、サブジェクトという概念が未整理であったことを加味しなくては、その時代の作品を正確に理解することは不可能だ」と言ったら、「それは哲学であってアートではない」とあきれられたのが、悔しくてならない。

日本語の思考は主体概念が曖昧で、それが個人主義を軸とした近代の成立を不完全なものとしているが、ヨーロッパではキリスト教概念によって成立されたサブジェクトが強固に固定しすぎて、その機能と成り立ちを考え、論理的に理解できるのは、哲学専攻の人くらいしか居ないのかもしれない。

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