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福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

色川武大『あちゃらかぱいッ』(河出書房新社)

http://www.amazon.co.jp/dp/4309407846


◇ 『あちゃらかぱいッ』 - hello, sun-child

 いかにノウ天気に見えてもそれが実は自己主張であり、卑下や自嘲が生きるうえで何の力にもなりえないことは私も含めて彼等もよく知っている。そこのあたりをお読みちがえになると(なに、ちがってどうということもないが)、本篇の世界と読者の間柄がちぐはぐになってしまうと思う。

色川武大の小説はエッセイと区別がつきにくい。色川武大の名で小説を書くとき、彼は自己に固有の偏りに徹底的に固執する。そこから、『黒い布』に始まり『狂人日記』に至る独異な「私」小説が生れる。色川武大その人と思しき男が、自らが世界に翻弄される様を語るという形式が基本となって、エッセイのなかで外形のみ示された出来事や、以前の小説で扱われた出来事に新たな側面から光が当てられ、不定形な「私」の思わぬ姿が見えてくる。ゆえにその小説は、ときに「シュルレアリスム的」と形容される。


でも、『うらおもて人生録』と『私の旧約聖書』を例外として、彼のエッセイには自己が稀薄である。徹底的に「眺める」人であった彼は自己に固有の偏りを極力排除し、人を楽しませることに徹してエッセイを書く。そこに色川武大のストイシズム=芸がある。それは他を煙に巻くような韜晦趣味ではなく、自己の毒性を知悉するがゆえの読者への配慮……自己の必然的な敗北、そのプロセスを書くためには「エッセイ」というジャンルは「外」に向けて開かれすぎている。だから自らに関しては沈黙を守らざるを得ない。その点については阿佐田哲也名義の麻雀小説も同様であると思う。


『あちゃらかぱいッ』に描かれるのは浅草芸人の世界、色川武大が少年時代に執着した世界である。でもそこに、「観客」としての色川少年は登場しない。小説世界に対象としての「私」が顔を出さない点で、1979年から1987年まで断続的に書かれた『あちゃらかぱいッ』は彼の小説のなかで特異な位置を占めている。「芸」に生きざるを得ない人間たちの姿は必然的に、色川武大という作家の「芸」を照らし出す。そこに、猥雑な浅草軽演劇の世界を描きながら、どこか「ニュー・シネマ・パラダイス」に通じるような郷愁が漂う。


エノケン、ロッパ、藤原釜足(黒澤映画の常連)、森川信(寅さんシリーズ初代おいちゃん)、益田喜頓由利徹森繁久弥……そんなふうなメジャー(?)な人たちはあくまでも脇役扱いである。土屋伍一(高見順のいくつかの小説に大屋五郎の名で登場する)と鈴木桂介、ふたりのろくでもない男が小説の中心的な位置を占めていて、色川武大は少年時代のハンチクな自分を(決して今の自分から、そしてあの頃の仲間たちから切り離すことなく)現在の眼で振り返りながら、芸人たちの不器用な生き様に自己を溶かしていこうとする。それが、『あちゃらかぱいッ』という小説の目論見だ。僕はそう感じる。

http://d.hatena.ne.jp/sun-child/20060503


      ※[色川武大] - hello, sun-child
      http://d.hatena.ne.jp/sun-child/searchdiary?word=%2A%5B%BF%A7%C0%EE%C9%F0%C2%E7%5D


色川武大『あちゃらかぱいッ』 - ひびのけんきゅう

色川武大やそのエピゴーネンのように、二流の芸人が好きだ、ということは死んでも口にしたくない。そういう口吻には、「二流が好きな自分」へのてらいや自己憐憫が隠れているからだ。色川武大のものの見方は基本的には信頼しているし、『寄席放浪記』の対談で明らかなように、寄席芸人に寄せる愛情も本物だと思うが、『あちゃらかぱいッ』のような芸人実録小説はいただけない。


色川は明らかに二流の芸人たちに自らを託して語っている。それは「文学している」といっても同じことだが、色川は文学を書くために二流の芸人が好きになったのではないと思う。二流の芸人について語らなければならないことになって、急いで文学的な自分をでっち上げただけだ。


二流の芸人たちについてただ好きだという以外に何を語れるだろう。客をオリジナルな表現や磨き抜かれた芸で圧倒させる一流の芸人とは違って、ルーティンでギャグを言っている二流の芸人たち。 私は好きで、引きつけられる。だがそれ以上に語る言葉を持たない。

http://study.khibino.net/archives/136
成蹊大学文学部准教授・日比野啓さんのブログより。
色川武大さんを批判している文章は初めて読んだかもしれません。。。