Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

諏訪敦彦監督の長編映画デビュー作『2/デュオ』(1997年)+α

◇ 2 Duo (2 dyuo) [1997] • Japan - YouTube
http://youtu.be/0tLlUHu1OCQ


◇ あらすじ 解説 2/デュオ - goo 映画

ひと組の恋人の微妙な心模様を描いたドラマ。監督は「はなされるGANG」で85年度のぴあフィルムフェスティバルに入選した諏訪敦彦。8度にも渡る推敲を重ねた脚本を捨て、セリフや動きを全て現場で役者の即興芝居に任せた斬新な手法で、初の劇場用映画となるこの作品を完成させた。撮影は「明るい場所」の田村正毅。主演は「FLIRT」の柳愛里と「セラフィムの夜」の西島秀俊

http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD20554/story.html


2/デュオ - ┴cinemum┘

監督:諏訪敦彦
出演:柳愛里
   西島秀俊
   渡辺真起子
   中村久美
■1997年、日本、95分、カラー

 人間関係の最小単位であり、原点であり、始まりとしての、「2」。その二者間の人間関係のうち、わけても密接である恋人関係を通して、人間関係の原点にある貴い意味が浮かび上がってくる。


 「結婚しよう」 そうケイがプロポーズしたのには、こういう動機があった。売れない役者のケイ(西島秀俊)は、恋人のユウ(柳愛里)のアパートに同棲して、毎日金をせびってはブラブラするだけの生活を送っていた。けれども、この頃は今までの生き方に区切りをつけたいというフラストレーションが高まっていて、だが役者への余炎にすぎない未練もまだ残っているし、今すぐ就職するなどという現実的なこともしたくない。そんな時ふいに、もしかしたら結婚すれば人生が開けるかもしれないなどと思いついて、よく考えもせず即プロポーズしたのだ。つまり人生の岐路に立っている現実を直視したくなくて何か他の非日常的でドラマティックなことにやみくもに惹かれていた、それだけのことだった。

http://www13.ocn.ne.jp/~cinemum/collection1-43.htm


◇ 2/デュオ - 山形国際ドキュメンタリー映画祭'97|Yamagata International Documentary Film Festival '97

なぜフィクション映画はドキュメンタリーとは呼ばれないのだろうか?世の中の多くの人が日常生活の中で演技をしているのなら、フィクションのなかの“演技の独自性”とどう違うのだろうか?諏訪敦彦監督は彼の処女作『2/デュオ』でこの疑問を投げかけている。彼はこれまでテレビのドキュメンタリー番組のディレクターや、長年にわたって長崎俊一山本政志などの劇映画監督のアシスタント・ディレクターをしてきたが、この映画では綿密に描いてきたシナリオを最後の最後でなげだしてしまった。そして、出演者のふたりには映画のシチュエーションの概要だけ伝えて、後はすべて俳優たちに任せた。どういう風にストーリーが進展していくかも俳優たち次第となった。彼も、そして観ているわれわれも、優と圭の破局を迎えた恋愛関係の傍観者にすぎない。二人は言葉を発するけれども、その言葉は意味を成していかない。けれど彼らの無意味な会話は、現実の難しさをまざまざと浮き彫りにしている。出演者のふたりは映画のクレジットで“ダイアローグ”担当となっているが、脚本家のクレジットはでてこない。ふたりはそのシーンごとに自分の役柄を即興で演じ、感情表現が下手くそな現代の若者、本当の気持ちを体面のいい外面の中に隠してしまうような日本の若者を映画的に描き出している。


諏訪は作品の一部で出演者のふたりに演じさせつつ、離れたところからキャメラでその演技を追うという手法をつかっている。撮影は小川紳介作品のカメラマンの田村正毅だ。ロングショットのフレームの広さが足りなくて、再度フレームし直す間にカメラの動きが演技を捉え切れないという場面がいくつかあるが、そういう場面をみると撮影の前にほとんど打ち合わせがされていないという印象が強まる。離れたところからふたりの演技を見ながら、きっと諏訪は、ふたりの役作りに自分は介入していけないのだと感じたに違いない。だから、ふたりの登場人物の内面に迫る方法として、ドキュメンタリー独自の手法、つまりインタビューの手法をつかっている。このインタビューのシーンで『2/デュオ』はドキュメンタリー作品に限りなく近くなっている。ここで、この作品は映画の製作過程の記録映画となり、そして自分の存在が不確かな世代のドキュメンタリーとなっているのだ。
(アーロン・ジェロー)

http://www.yidff.jp/97/cat107/97c109-1.html


◇ 『2 デュオ』諏訪敦彦監督(日本1997) - ラッコの映画生活

映画の中のカフェのシーンで圭が「結婚しようか」と言うのに対して優が「次のセリフは?」と問い、圭が「セリフなんかねえーよ、セリフなんかもう言わねえよ」と言うが、これが映画の作り方を暗示している。またカメラが主演の柳愛里や西島秀俊にインタビューするようなシーンが挿入されている。そこでは例えば監督が「圭から結婚しようと言われて、何も答えませんでしたが、何故ですか」と問い、優を演じる柳愛里が優として優が何をどう考えているかを問い、柳が柳として、また優として、それに答える。そういう形で基本設定だけを役者に与え、そこからの役作りやセリフは役者に委ねられ、映画の撮影が進行しているのだ。

いつからは明示されないけれど、一緒に暮らすハウスマヌカン(ちょっと表現が古い?)の優(柳愛里)と役者志望ながら上手くいっていない圭(西島秀俊)の関係が破局するまでの物語。一言にしてしまえば、ピーターパン症候群の圭とウェンディ症候群の優と要約できるかも知れない。しかしこれはかなり重要なことで、そのような役作りが決して脚本や監督の指示ではないことだ。すぐ上に書いた同棲カップルの状況を与えたら、少し補足するなら圭にはほとんど収入がないということだが、そうしたら役者の西島と柳がそういう役作りをしていたという事実である。それは必ずしも実人間西島や柳がピーターパンやウェンディであるという意味ではないが、その状況でこういう役作りを2人がしたということは、現代の日本の社会の反映だからだ。

もう一つ感じるのは結婚の問題だ。これももちろん脚本ではなく役者から出てきたセリフだ。結婚には親族との関係とか社会的ことが関わるし、それと無関係ではないことだが一応は離婚を前提としない永続性への期待がある。他から縛られると感じるか、好んで自分を縛ろうとするのか、どちらであれ結婚の2文字の心理的インパクトは大きい。この圭と優が親族のいない天涯孤独の2人だとしても、恐らく同棲と結婚は心理的に違いがあるのだろう。『M/OTHER』でも「結婚しようか」というセリフが役者から出てくる。日本人は結婚願望が強いが、実質的に自分たちがどういう2人であるかという本質よりも概念が勝った世界なのだ。


社会学者のデュルケイムは『自殺論』の中で、自殺の原因は破産や失恋という個々の理由にあるのではなく、社会にあると言った。つまり同じ破産や失恋をしても自殺を簡単にする社会とそうでない社会があるということだ。そういう意味で捉えた社会、勝手にちょっと敷衍して社会の深層心理とも言えるかも知れないが、そういう目で捉えた社会を浮き彫りにするところが、諏訪監督の手法にはあるかも知れない。

http://plaza.rakuten.co.jp/KarolKarol/diary/200702030000/

      • -


◇ 『M/OTHER』諏訪敦彦監督(日本1999) - ラッコの映画生活

哲郎とアキの同棲中のカップル(三浦友和渡辺真起子)。そこに哲郎と離婚した妻との間の8歳の俊介が転がり込む。離婚した妻が交通事故で1ヶ月入院することになったのだ。伝統的結婚制度に組み込まれるということは、社会的な約束事や制約に縛られること。それを嫌って結婚もせず、子供も作らず、自由に仕事やプライベートに生きていた2人、特にアキ。哲郎の方はどこか根で伝統的男女観が染み付いている面もある。そんな状況でアキは仕事と家事の両立、さらに子供の世話への拒否感、8歳の俊介への愛情を感じながらも精神的に追い込まれていく。


ストーリーは監督と役者のディスカッションで細部が決まり、セリフも即興的。カメラも回しっぱなしで、編集によるカットも極力していない。それで約2時間半にもなる。出来上がった映画のストーリーを最初から普通に映画とすればきっと1時間半だろう。しかし実際に我々が日々生きる日常生活は、整理された映画台本とは違う。同じ愚痴が何度も繰り返し蒸し返されたり、会話だって途切れてすらすらスムーズに進むわけではない。そんな意味でドキュメンタリーを見ているようでもあり(特にアキの友人が子供を連れて訪問する場面等)、隣の家のカップルを覗き見しているようでもある。

http://plaza.rakuten.co.jp/KarolKarol/diary/200612260000/