Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

『暗黒日記』清沢洌 - 松岡正剛の千夜千冊

しかし、最も辛辣というよりも、真剣に見ていたのは、やはり日本の国民意識に対してである。日本の将来というものに対しての感想である。こんな言葉が散見できる。


◇(正宗白鳥氏は)日本国民は戦争の前途にたいし
  て不安を持っていないと話していた。そうだろうと思
  う。暗愚なるこの国民は、一種のフェータリズムを
  有しているのだ。
◇不思議なのは「空気」であり「勢い」である。米国に
  もこうした「勢」があるが、日本のものは特に統一的
  である。この勢が危険である。あらゆる誤謬がこの
  ために侵される。
◇いわゆる日本主義の欠点は、国内の愛国者を動
  員しえぬことである。思想の相違を以て、愛国の
  士をも排斥することである。
◇モラールの問題だ。日本は全く行詰まったのだ。
◇日本国民は世界一だというのに、日本人ほど自国
  民を疑うものはない。
◇日本においては秩序が維持されていたがゆえに、
  地方自治が発達しなかった。
◇左翼主義はそれでも研究をした。歴史研究にして
  も未踏の地に足を入れた。唯物的立場から。然る
  に右翼に至ては全く何らの研究もない。彼らは世
  界文化に一物も与えない。
◇作戦に対する批判が全くないことが、その反省が皆
  無になり、したがってあらゆる失敗が行われるわけ
  ではないか(アッツ島玉砕の日)。
◇英霊は日本人のみにあって、外国人にはないのだ
  ろうか。
◇日本は英国を東亜より引きあげしめるべきではな
  かった。英国が居れば、相共に米国を牽制するこ
  とが出来た。英国は恐ろしくない。然るにこれを
  追ったために英米は握手してしまった。
◇日本人は問題の重要性を識別する力がない。形式
  に捉われるのはそのためだ。


 ここで「空気」とよんだものは、のちに山本七平が本格的研究に乗り出したものだ。左翼と右翼の比較もおもしろい。
 ともかく清沢は戦火のなかで、案外悠々と次の時代を読みきっていた人だった。このあたりの慧眼にはさすがのものがある。

 たとえば次のごとく、だ。「新しい時代には言論の自由の確保ということが、政治の基調とならなくてはならぬ」。「今回の戦争の後に、予は日本に資本主義が興ると信ず。総てを消費しつくとたる後なれば、急速に物資を増加する必要あり。然も国家がこれをなすのには資金なく、また官僚を以ては、その事の不可能なことは試験ずみである」。また、「政治家に必要なのは心のフレキシビリチーである」というふうに。
 そうした慧眼のあいまに、また別の感想が入る。
 これはぼくも驚いた感想だったが、「午後の夕刊にて中野正剛の自殺を知る。僕は大東亜戦争勃発に続いてのショックを受けた」とあった。中野正剛の死を開戦の過誤と同等に扱った。あるいはこんな指摘もあった。「九州は中野正剛的だ。東北は後藤新平的だ」。かとおもえば、歌舞伎が好きだったようで、小浜利得とよく歌舞伎座を訪れたようなのだが、「菊五郎に僕は感心しない。まるで踊りだけの芸だ。声も悪し」とも書いている。菊五郎に文句をつけるのは並じゃない。
 こうして死ぬ1カ月前のこと、清沢洌はこんなふうに嘆息していたものだった。「官僚と軍人の政治というものが、こうも日本を滅茶にしてしまったのだ、ああ」。

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0648.html
清沢洌の『暗黒日記』に興味を持ったのはずいぶん前のことですが、未だに読めていません。今こそ読むべき本だと思います。


清沢洌評論集 - eirene’s memories

排外主義が巻き起こる厳しい時代に、よくこれだけの文章が書けたものだと、改めて感心する。

 清沢が息子に教えているのは

・他国の人々を丸ごと悪魔化することの愚

・不安を煽る好戦的メディアのプロパガンダに巻き込まれることの愚

・国家と国家が敵対関係に陥っても、個々人には国家や人種の違いを超えて、信頼関係を築く可能性が与えられていること

・空気や情緒に流されず、道理を重んじる(考えること)の大切さ

 そういったことだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/eirene/20091228/1261966637


清沢洌 - Wikipedia

開戦後1年経過した1942年(昭和17年)より、清沢は「戦争日記」と題した、新聞記事の切抜きなども含む詳細な日記を記し始めた。いずれ時期が来れば、日本現代史(昭和史)の著述にあたり、その備忘録とするつもりであったとされる。官僚主義の弊害、迎合的ジャーナリズムの醜態、国民の対外事情に対する無知、社会的モラルの急速な低下などを記録する。この日記は1954年に『暗黒日記』の題名で、東洋経済新報社で出版され、数社で新版刊行された。 清沢は、終戦を目前に1945年(昭和20年)5月21日、急性肺炎により東京築地の聖路加病院にて急逝した。吉田茂石橋湛山という後に首相となった2人を知己にもち、戦後存命であれば政界・言論界で重きをなしたであろう知米派知識人の、55年の短い生涯であった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B2%A2%E6%B4%8C