Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

『オブジェ焼き』八木一夫 - 松岡正剛の千夜千冊

 八木一夫にこのようなタイトルの著書はない。八木が生前に出版したのは『懐中の風景』と『刻々の炎』の2冊だった。そこから随筆を選んで組なおしたのが、本書である。
 よく編集されているが、その随筆の感想を言う前に、ぼくが八木一夫の実物を見たときの話を先に書いておく。大阪のカサハラ画廊で開かれた「いつも離陸の角度で」という個展だった。そのとき脂の乗りきった八木は59歳で、黒陶を見せていた。
 1977年のことである。病状が悪化していた稲垣足穂を見舞った足で大阪まで行ったものだ。行ってみて、驚いた。何も表現していないのだ。まるでモノリスである。しかもそれは、八木のモノリスだった。

 八木は本書の中の「原始への随想」で、八木自身の原点を告訴することを書いている。
 この随想は原始的な土器や陶器や木器にはすばらしいものがあるという内容で、そこまでは岡本太郎をはじめ誰もが気がつくことなのだが、八木はその原始的な器には「つくりもの」というのではなく、「できごとのように、おのずと生まれ落ちたもの」があると書いている。
 これは八木による八木一夫の原点の告訴である。そうなのだ。八木の陶芸は「できごと」なのである。「生まれ落ちたできごと」なのだ。そのようにしたかったのだ。

 いったい「できごと」としての器物はどういうものかというと、これを「器胎」といったらいいとおもう。
 器そのものの形や色や風合だけを問題にしたのでは「できごと」は見えない。おこらない。八木も書いているが、そこには「できごと」とともに「待ちうけるもの」がなければならない。これが「器胎」というものだ。
 このことは、そもそも「ウツワ」という言葉を日本人が選んだその時点から生じていた思想なのである。「ウツ」なる空洞なるものがその中に何かの到来を待ちうける。これが日本のウツワの本来である。そのウツワから「ウツシ」が派生する。ウツシは「写し」であって「移し」であり、また「映し」であった。どうやら八木はそのあたりを考えめぐらした。

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0314.html