Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

偽日記アーカイブ(2004/09)

04/09/12(日)
●そんなにちゃんと読んでいるわけではないフリードにあまりこだわるのもどうかと思うが、『芸術と客体性』を読む時のキーワードとして「grace」をもってくるのが適当だと思われないのは、彼が実際に高く評価している作家たち、ルイスやステラやオリツキーやカロの作品が、普通の意味で「恩寵」的(超越的)なものから遠いという事実がある。意地の悪い言い方をすれば、ニューマンやロスコ(あるいはリヒターやキーファー)の作品を観て「感動する」のは実に容易なことなのだが、カロの作品を観て「感動する」のは難しい。それは無媒介的な感動ではなく、ある知的な操作を経ることで得られる「面白さ」(複雑さ)によって成立している作品であると言えよう。それを面白いと思うためには、自分に与えられる「感覚」(実感)を、ある程度相対化して吟味するという、知的な操作性を媒介として必要とする。(つまりそれが「読み込む」ということなのだが。)そしてこのような距離(媒介)の設定こそが、フリードの言う、リテラルネスに対する「抽象性」と深く関わる。(この対立は、コーリン・ロウによるリテラルな透明性とフェノメナルな透明性という考えを想起させる。)フリードにおいては、「抽象性」の方が、恩寵よりもずっと重要であるように思う。(カロの作品は、そのような抽象性ゆえに普通の意味での感覚的・表現的な「押し出し」が強くない。だから一見、上品で趣味の良いだけの、古典的で無難な作品のようにも見えてしまいがちだ。しかし、いわゆるミニマル・アートの作品が、おしゃれなショップのディスプレイなどにすんなりとけ込んでしまうのに対し、カロの作品は周囲の環境に簡単には取り込まれない、独自の頑なな強さがある。このような頑なな強さこそが、作品を作品たらしめている「感覚的な実質」というものだろう。)
フリードがステラの「不整多角形シリーズ」を評価する時、いかにもフォーマリスム的に、リテラル・シェイプ(支持体そのものの形)とデピクテッド・シェイプ(描かれた形)との対立を止揚して「斜視的な効果」を生んでいるから良いのだという風に言うのだが、ここで勘違いしがちなのが、それを「リテラル・シェイプとデピクテッド・シェイプとの対立」という形式的な「問題」がまず最初にあって、その問題を見事に解決しているからステラは偉い、という風に読んでしまうことで、そうではなくて、まず、あるひとつの「抽象性」としての成立する「斜視的な効果」が、感覚的な実質として面白いと評価されていて、そのような「斜視的な効果」は、リテラル・シェイプとデピクテッド・シェイプとの対立の止揚によって実現しているのだと、その後で分析されている、と読まなければならないだろう。あくまで「斜視的な効果」という抽象性(リテラルな即物性から切り離されて構成されたある感覚的な実質)の質こそが問題になっているのであって、この点を間違うと、アメリカ型のフォーマリズムは、絵画の本質の追求という名のもとで作家と批評家が一丸となって行う「問題解決プロジェクト」みたいなもので、こんなプロジェクトは既に過去のものだということにしかならなくなってしまう。
ここで「抽象性」という概念が重要なのは、それがリテラルなもの(とりあえずは日常的なものと地続きの即物性・客体性のこと)と切り離されているのと同時に、共同体的なものが保証する連続性(祝祭による恍惚や超越的感覚)とも切り離された場所に設立されるものだということだろう。つまり、現世的・俗的なものからも、超越的・聖的なものからも切り離されて宙吊りになった「感覚的な実質」こそが、フリードにとってのモダニズム的な作品に必要な内実なのではないだろうか。(それは抽象的・人工的だからこそ、無媒介的な実感や感動に、常にある操作的な距離=読みを差し挟むことによってしか開かれない。そのような作品は、恩寵のような大げさなものを生むのではないし、冷たくもなく熱くもなく、感覚や知性を最も活発に活動させるような、軽い高揚のような状態をつくりだす。)しかし実は、ここで言われる「抽象性」へのこだわりとは、モダニズムというような「イズム」の問題であるよりむしろ、フリードをフリードたらしめているの個人的な体質や趣味に深く根ざしているようにも思える。

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