◇ 疾風する被写体 - 好去好来
写真家の土門拳氏は写真集のエッセイで「走る仏像」と題して文章を載せています。
「仏像は静止している。伽藍は静止している。もちろん境内の風景は静止している。と、だれしも思うだろう。仏像や山や木というものは、写真の対象のうちでは、スタティックな被写体に属するはずである。わたしも長い間そう思っていた。
ところが或る日、宇治の平等院へ撮影に行った帰り、鳳凰堂に別れを告げようとして振り返ってみたら、茜雲を背にたそがれいる鳳凰堂は、静止しているどころか、目くるめく速さで走っているのに気がついた。しばし保然となったわたしは、思わず「カメラ!」とどなった。・・・・・・・・・・」
「それにしても、茜雲の平等院以後、わたしには、仏像も建築も風景も、疾風のような速さで走るようなものになってしまったのには閉口である。」土門拳の古寺巡礼 第三巻 京都(一)より。
小学館 土門拳の古寺巡礼 著者:土門拳
http://blogs.yahoo.co.jp/daikoukai2122/61338737.html
◇ 土門拳の写真 - kiyoshiさんの日記 - ヤマレコ
「古寺巡礼」。土門拳の仏像写真は強烈なものだ。慈愛も、孤独も、哲学も、怒りもそれが本物の仏像の何倍も膨れ上がったような連作。土門はまさに仏像と正対し、真正面から撮る。
「・・・ところが或る日、宇治の平等院への撮影に行った帰り、鳳凰堂に別れを告げようとして振り返ってみたら、茜雲を背にたそがれている鳳凰堂は、静止しているどころか、目くるめく早さで走っているのに気がついた。・・・」
土門拳の対象へののめり込み方が伺える言葉だ。
http://www.yamareco.com/modules/diary/4477-detail-46800
◇ 走る仏像 - そばころ
仏像は静止している 伽藍は静止している
もちろん境内の風景は静止している と だれしも思うだろう
仏像や建築や山や木というものは
写真の対象のうちでは スタティックな被写体に属するはずである
(スタティック;静的という意味)
わたしも長い間そう思っていた
ところが或る日
宇治の平等院へ撮影に行った帰り 鳳凰堂に別れを告げようとして振り返ってみたら
茜雲を背にたそがれている鳳凰堂は 静止しているどころか
目くるめく早さで走っているのに気がついた
しばし呆然としたわたしは 思わず「カメラ!」とどなった
すっかり帰るつもりでいた助手たちは
げっそりした顔でカメラの組み立てにかかった
その間にも鳳凰堂は逃げるように どんどん どんどん走ってくる
「早く 早く」とわたしはじだんだ踏んだ
そして棟飾りの鳳凰にピントを合わせるのももどかしく
無我夢中で一枚シャッターを切った
たった一枚
.....
土門拳
http://sobakoro.blog.ocn.ne.jp/blog/2009/10/post_55df.html
◇ 土門拳「走る仏像」 - 繭八庵@Hatena
土門拳「走る仏像」
無我夢中で一枚シャッターを切った。たった一枚。そしてもう一枚と思って、レリーズを握った私は、シャッターを切るのをやめた。さっきまで金色にかがやいていた茜雲は、どす黒い紫色になり、鳳凰堂そのものも闇の中に姿を消していたからである。それは全くどこかへ逃げ去ったとでもいうほかない早さで、すがたを消していた。