Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

中井正一の著作から

中井正一 絵画の不安 - 青空文庫 Aozora Bunko

 この不安なき世界はハイデッガーにとりては饒舌(Gerede)の存在にしかすぎない。それはすでに語られたることについてのおしゃべりである。そこに何の本質凝視もなく、話されたることへの話である。それは何ものかについての直接なる話ではない。みんなが語るところのもの、ありきたりのもの、「だそうだ」のことについての言葉である。人々と共にともかく同じことをいいたい考えたいこころもちである。言葉の……また絵の……その日暮しである。ここにはじめて好奇のこころが意味をもつ。それは何ものかを見究めんとするのではなくして、ただ見ればよいのである。人だかりの中に何でもよい首をつっこみのぞき込む思想の……芸術の……散歩である。思想のショーウィンドのぞきである。そこには存在への執着もなく、強い把握もない。好奇は常にすべてに対して興味をもつとともに、しかも何ものにも執しない。そこで存在はその根を失って日常性の中に堕し、ただ人と共に在って、自分は見失われてしまう。読まれたるもの、語られたるもの……描かれたるもの……についての剽窃に日は過ぎていく。すべてについて、そして何もののためにでもなく問われかつ答えられる。この世界をハイデッガーは「軌道の上の生活」(auf der Spur sein)と名づける。いわば在来の考えかた、ありきたりの日常性の中に楽々と生きることである。真の自分を掘り下げることをにぶらせることである。この世界を彼は「命なき存在」への没落と名づける。自分に飽満せる安易、だらしなき悦楽と放恣、自分に畏おそるることなくかえって、独自の意見を失って人とあるいは党派と異なることへのみの怖れ、自分でありながら自分の外に住むこと、世間への自己解体、自己溶解、これらの墜落を彼はすべてを吸いこむところの過流(Wirbel)という。
 それは、もはや死ぬることなき死への埋没である。

 いわばギリシャでは、技術の概念は人間の身体構成の上にかぎられた。しかし、現代の技術の概念は社会構成の上に生産さるる科学的機械的技術をも含む。それは、天才をもその一要素として構成因子とするところの巨大な機構の内面である。この技術が、近代の視覚、見る意味に大きな変化をもたらしたことは、多くの美学者の指摘するところである。ベーラ・バラージュ、ヴェルトフ、フランツ・ローなどの考えかたが、それである。
 それはレンズの見かたの発見である。
 それは実に個性なき非人間的存在ではある。しかし、それは見る存在である。いわば見る機能(フンクチオン)の異常なる発展であると共に、実に一つの性格の所有者でもある。
 たしかに、人の眼球構造と相似の過程ではある。しかし、望遠鏡や顕微鏡におけるがごとくその視野の拡大と正確性は、人の見る意味の深き飛躍でなくてはならない。そして、いまだ人の見るあたわざりし新しき美わしさを、人はそのレンズを通して見るのである。またレントゲンの出現は、人の眼の見つくすあたわざる存在の内面にまで見る意味を発展せしめる。また映画に見るごとく、動きの再現と、スローモーション、時間的可逆性重複性などの自由性は、見る世界の構成モンタージュに新しき転回をもたらす。
 ことに構成において示す一様の調子、明暗の鋭い切れかた、あるいはネガティヴの怪奇性、精密なリアリズム、確実なる直線ならびに曲線への把握性は、人の芸術の達するあたわざる数学的感覚をあたえる。またその把握の瞬間性は、あらゆるスポーツ、踊り、自動車、飛行機、飛行船などのものにまで、美的要素の題材を拡げ、しかもその瞬間の一瞥が何びとの永き正視よりも正しきリアリズムに達することは、見る意味とその把握性に、いずれの天才的巨人の試みよりももっと大きなものをもたらせている。また手法の方向の自由性と光線の方向の自由性のもたらす変革性は、絵画史上のいずれの時代における変革性よりも激しい飛躍をなし終った。
 細胞の内面、結晶の構成、星雲の推移、また分子のブラウン運動などのものを把握の対象とすることは、単に物語物絵巻などをのみ対象としている日本絵画壇にとっては、あまりにも激しい題材の加重であろう。
 しかしそれが、われわれの見地のもっている一つの不安であることは、われわれの眼をそむくべからざる課題であることを忘れてはならない。
 見る意味のマンネリズム、見る意味の日常性より脱すること、これがまさにあるべき不安の一つである。そしてかのレンズの瞳の見かた、かの「冷たい瞳」のわれわれの瞳への滲透、これは巨大なる見る意志の足跡であり、人間の瞳のはかり知れざる未来の徴しである。
 しかもそれは、一つの新しき性格の出現を意味している。それは精緻、冷厳、鋭利、正確、一言にしていえば「胸のすくような切れた感じ」である。それはこれまでの天才の創造、個性における個別性などの上に見いだすものというには、あまりに非人間的なるファインさである。すなわち換言すれば、それは一つの新しき「見る性格」の出現である。それは、天才の個性ならびに創造の中に見いだしたものより異なれる見かたである。言い換えれば、レンズの見かたである。その瞳は日常の生活、新聞、実験室、刑事室、天文台、あるいは散策の人々のポケットの中にこの機械の見る眼、そのもつ性格は、すべての人間の上により深いより大きい性格として、すべての人の上に、その視点を落している。コルビュジエの「見ざる眼」、バラージュの「見る人間」、ヴェルトフの「キノの眼」も、またその冷たい瞳について語れるにすぎない。
 そして最も大きなことは、それが社会的集団の構成した「瞳」であり、集団の内面をはかるに最もふさわしい瞳であり、あたかも自己みずからその自画像をみずからの眼を通して見まもるように、レンズの眼は集団の内面を見まもるともいえよう。そこに、天才をもその一つの要素とする巨大なる集団構成が、その精緻なる技術をもって芸術の技術となし、新しき調和の概念を生み出しつつあるのを知るのである。

http://www.aozora.gr.jp/cards/001166/files/46163_23678.html
中井正一「絵画の不安」(1930)より


中井正一 壁 - 青空文庫 Aozora Bunko

 かつて原始人が巌を透して視覚の自由を主張したように、近代人は石英と鉛の溶融体を透してその視覚の自由を獲得せんと焦慮している。
 近代人がレモネードをすすりながらガラス窓の平面を透して、往来する街路をながめている時、そこに繰りひろげられる光の画布は近代人のもつ一つの「壁画」でなければならない。動く壁画であり、みずから展開するかぎりなき絵巻であり、時の中に決して再び繰り返すことなき走馬燈でもある。集団が集団みずからを顧み覗き込むために彼らはガラスをもったといえるであろう。われわれはあの雨のハラハラ降って小さな音をたてるガラス戸をのみいっているのではない。街角を強く彎曲している巨大な建築素材としてのガラスに呼びかけているのである。巌壁のように立ちあがっているガラスの壁にものをいいかけているのである。それは見る一つの性格である。

 写真がみずから独立して、活版と親しく腕を組むことで、その独特の領域をもつことはまさに、ガラスの壁よりもぎとられたる一片の視覚を通して、視覚みずからが集団的性格と、組織的機構の中に沈みゆくことを意味する。
 ガラスの壁が現在において特殊の意味において「壁画」の役割りをもつように、レンズはまた他の特殊の意味において現在の壁を飾るところの光画の役割りを演ずる。建築様式にしたがって壁の意味が異なること、それにともなって光画がその意味を転ずることに深い注意を向けねばならない。

http://www.aozora.gr.jp/cards/001166/files/46273_31192.html
中井正一「壁」(1932年)より


中井正一 「見ること」の意味 - 青空文庫 Aozora Bunko

「見ること」の機(はず)みをもって、自分自身がいつのまにかほかのものとなっていることを確かめる。「見ること」の機(はず)みをもって、自分自身を脱けだし、自分自身を対象化すること、「見ること」を機(はず)みとして、自分自身を自分自身に矛盾せしめ、自分自身をスプリングボードとして時の中に跳ねかえり、突きすすむ。これが芸術気分である。「見る存在」の中に人間が身を置く時、時の中に欝勃としてひろがっている自分と民衆に一様に響きくる反響である。
 こんな意味で画の世界にとって画布は、演劇の世界にとって舞台の第四の壁は、文学の世界にとって紙は、一つの機(はず)みであり、跳躍の板である。画布は決して二次限[#「二次限」はママ]の平面ではなくて、発条のようなはたらきである。
 しかしこんな芸術気分には現今においては人々は実にふれにくいのである。なぜなら、商人が算盤を忘れて「見る世界」に入るどころか、画家が算盤を抱いて絵を描いているのである、いや描かずにいられないのである。
「見る存在」それ自体が商品化されている。そして大衆の見るはたらきは利潤対象として数量化されている。大衆は利潤対象としての大衆として、訓練され、ようやくものになりつつある。デパートと映画と新聞と蓄音機のタイアップと、権力者の参加で、とんでもないものになりつつある。
 大衆の見る作用が、すでに売りものに、売りものどころかもっと大きな機構の犠牲になってひきゆがめられている証拠を私たちはいたるところに見せつけられるのである。誰一人真にその中で楽しんでいるのではなくして、人々と共に、何かに引きずられているのである。

http://www.aozora.gr.jp/cards/001166/files/46269_31194.html
中井正一「「見ること」の意味」(1937年)より