◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2013年02月13日 - Twilog
“例えばこういう言い方をどこかで聞きかじってそれをさも自分で考えたかのようにさらりと再現する才能をぼくはあまり信用しない。それはライターや評論家、つまりぼくのような人間の才能であって、そうやって器用に何もかも語れることと、それが表現としてできることは一致しない。
しかしこの学生は、作品の内側にある論理性を発見し、それを自分の作品の「方法」に置き換えようとしている”(大塚英志『大学論』・第六章「ルパンの背中にはカメラのついたゴム紐が結んである」より)
“中途半端な美大やライティングコースでそういう学生同士の講評を見ていて感じていたのは、もっともらしい現代思想や美術論を語れる学生がその場を支配してしまうことの愚かさだ。なるほど「評論」されて初めて「価値」が生じるアートや文学を目指すにはそれも悪い経験ではない。
けれどもぼくは自分の中にちゃんと「方法」が意識され、それを「表現」として形にできて、そして同時にたどたどしくて少しもかまわないから自前の「ことば」にできた時、初めて他人にアドバイスができると考える”(大塚英志『大学論』・第六章「ルパンの背中にはカメラのついたゴム紐[略]」より)
http://twilog.org/n291/date-130213/allasc