Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

ジャン・カルヴァン - Wikipedia

フランス・ピカルディ地方のノワイヨン生まれ[1]。法律、神学を学び、人文主義的な教養を身に付けた[2]。ルキウス・アンナエウス・セネカの『寛容書簡(寛容について)』を翻訳し、1532年パリで刊行[1]。1533年頃に、突然の回心を経験したという。
1534年、パリで檄文事件が起こるとプロテスタントへの弾圧が激しくなり、バーゼルに亡命した[1]。


キリスト教綱要の出版
1536年3月、26歳のときにバーゼルで『キリスト教綱要』(初版本、ラテン語)[3]を刊行。この本は広く読まれ、その名を世に知られた[1]。カルヴァンは名高い論争家で、論敵との議論の必要性から『キリスト教綱要』も5度にわたって改訂・増補され、1559年出版の最終版は初版本(1巻本)の数倍もの分量になった。1541年にはフランス語版が刊行された。
同じ1536年、旅行中に偶々滞在したスイスのジュネーヴ市で、牧師のギヨーム・ファレルに要請され、同市の宗教改革に協力する[4][1]。1538年、教会勢力の拡大を恐れた市当局によってファレルらと共に追放の憂き目を見るが、約半年間バーゼルに滞在したのち、ストラスブール(シュトラースブルク)に3年間滞在した。


神権政治
そして、1541年には、市民の懇請によってジュネーヴに戻る。以後30年近くにわたって、神権政治(または神政政治、セオクラシー)を行って同市の教会改革を強力に指導した[5]。ジュネーヴにおいてカルヴァンは厳格な統治を行い、市民の日常生活にも厳しい規律・戒規を求めた。


セルヴェートの処刑
1553年、カルヴァンの手の者によって異端者として告発された旅行中の神学者ミゲル・セルヴェートは、ジュネーヴ市当局によって生きながら火刑に処された(ただし、火刑はカルヴァンの意ではなかったというが、それでも彼は、セルヴェがジュネーヴに来れば生きて去らせることはしないと周囲に語っていた)。これに先立ってセルヴェの処遇を同盟諸都市に訊ねたジュネーヴ市は、全ての意見がカルヴァンと同意見であったため、これを境にジュネーヴ市におけるカルヴァンの地位はほぼ確定したものとなった。他方、この事件に対しては、セバスチャン・カステリオン(Sebastian Castellio) など反カトリック陣営がカルヴァンを非難した。
1555年にはカルヴァン派の市長が4人になった[1]。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3


◇ スイスの宗教改革 - カトリック中央協議会

III-3 スイスの宗教改革
 スイスの宗教改革はツヴィングリによって始められた。彼はカトリック司祭でエラスムスとルターから大きな影響を受けていたが、スイスの傭兵を使って領土拡張戦争を行う教皇庁の姿勢に疑問を抱き、さらには教皇制そのものに批判を向けるようになった。彼はチューリヒでルターの「聖書のみ」を主張し、聖書が明白に命じているもの以外はすべて拒否する運動を激烈に展開したため、チューリヒは大混乱に陥った。事態収拾のため当局は福音主義を受け入れ、ミサは廃止され、修道院も姿を消したが、この動きはまもなくスイス全土に波及した。ツヴィングリの急進派の弟子たちは、国家と教会の癒着、信仰の俗化という悪の根は幼児洗礼にあるとし、それを禁じた。そのため、幼児洗礼を受けている者は洗礼を受け直さなければならないという、いわゆる「再洗礼」を説いた。主戦論者であったツヴィングリはその後、チューリヒ軍を率いてカトリック諸州との武力衝突をくり返しているうちに戦死した。
 ツヴィングリの後、スイスの宗教改革を引き継いだのがカルヴァンである。彼はフランスに生まれ、初めヒューマニズムを基に法律を学んだが、20代半ばに福音主義い転じた。彼はフランス王がルター派の弾圧にのり出したのをみて国外に亡命、『キリスト教要綱』を著して福音主義を弁護し、スイスのジュネーブ宗教改革者として迎えられた。彼はかつての宗教改革者たちが犯した種々の混乱から教訓を得、宗教と政治、教会と国家の機能を明確に分け、両者の担うべき責任を区別した。一時は反対派に追放され、ストラスブールプロテスタント教会の指導にあたったが、1541年にジュネーブに復帰、1555年までにこの町の宗教改革を達成した。その信仰はルターの福音主義に立ちならがらも、世俗の職業を神の召命とみなし、質素な生活と禁欲を重んじることをもって信徒の生活の聖化をはかった。また、カトリックとは別の長老制を打ち立てて俗権に対しても教会の独自性を保つ道を開いた。カルヴァン主義と呼ばれる彼の路線は、フランス、オランダ、イギリス、新大陸へと広がりプロテスタント運動を強めることに一役かった。なお、彼の『キリスト教要綱』は幾度かの増補改訂を経て、プロテスタント神学の基本的な体系となった。

http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/dogma/dog15.htm