Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

モデュールの現在 | 難波和彦 ‹ Issue No.48 ‹ 『10+1』 DATABASE | テンプラスワン・データベース

http://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/1393/


◇ #007:SD選書111,112  「モデュロールI, II」

ル・コルビュジエ=著、吉阪隆正=訳
初版1953年(原書初版1948年)
SD選書版1976年
評者=池辺陽
掲載=『SD』1977年3月号

パフォーマンスの問題は、コルビュジエは、そのような言葉では言っていないが、初めからの彼のモデュロールに対する概念であった。彼にとっての寸法とは、個々のものに与える寸法の問題ではなく、人間の空間全体を組織化する方法としてのモデュロールを提案したわけである。彼は序文で、寸法とは百科事典的なものであってはならないということを明白に述べている。だが現在まだ寸法と建築空間について百科事典的な受け取り方は一般的に強く行われている。『資料集成』はいまだにベストセラーであるらしいが、この百科事典的なものの代表であろう。コルビュジエモデュロールで求めたものは、結果として寸法のシリーズであるが、その目的は寸法の有機的体系化にあった。そして彼がその原点として見出したものは、黄金比と人間の寸法であった。黄金比の問題については後で触れることにしたいが、彼が抽象的な比例にすぎない黄金比に人間の寸法を組み合わせることによって有機的なモデュロールをつくり出したことは、当時はもちろん、現在でもみごとなものであるといってよい。ただ個々に組み合わされたモデュロールの数系列(赤、青に分かれているのだが)だけを見て、乾いた寸法として論ずる場合には、多くの誤解が当時にも、現在に至ってもまだ生まれている。

ぼくがモデュロールを知ったのは、たぶん1950年ごろだと思う。当時寸法の体系化を何らかの形で求めていた立場からすれば、このモデュロールは衝撃的なものであった。さっそく数学専門の連中にも集まってもらい、このような体系がほかに成立し得るかどうかということを一晩論じた。だが彼らの結論は、ほかには存在しないという大変残酷な(ぼくにとって)ものだった。だがぼくの当時の考えは、どうしても別の体系を探し出そう、コルビュジエのまねはすまいという考えであったので、その結果、1956〜57年ごろようやく2n を基本とする体系をつくり出したのである。これは<GMモデュール>と名づけられている。

モデュロールの日本における当時の影響は、50年代から始まっていた。上野の西洋美術館はコルビュジエの基本設計によるものであるから、当然モデュロールそのものでできているが、それ以外にも何人かの日本の建築家がコルビュジエの理論を建築設計に取り入れようと努力した。最も代表的な当時の作品は、丹下健三香川県庁舎などであろう。もっとも彼の場合は、人間の寸法をモデュロールの手をあげた高さ2m260に置かず、身長の1m800において展開したことに大きな違いがあり、それ以後の黄金比的展開は同一であるが、果たしてこれがコルビュジエのいうモデュロールであるかどうかは大きな疑問がある。

1950年代は日本だけではなく、『モデュロールII』にも触れられているように、世界的に多くの建築家が、このモデュロール及びモデュロールのシステム改訂版とも呼ぶべきものを建築設計に利用した。そしてそれが相当な効果をあげたことは、『モデュロールII』にも書かれているとおりである。だが何といってもこのようにコルビュジエの方式は、他の建築家が取り入れた作品とは違って、コルビュジエ自身の戦後最大の作品ともいえるユニテ・ダビタシオン(マルセイユ)に結晶しており、それは現在に至るまでモデュロールの価値を検討するのに十分な内容を持っている。

彼がここで主張しているのは、単に天井高が2m260であり、人間の個人単位がそれの立方体であるというだけではなく、人間の生活を大きな集合としてとらえ、その中に共用設備などを含めていった点にあった。ここにモデュロールのシリーズとしての展開が、単に寸法の問題ではなく、人間生活のシリーズ的展開と対応している点を明確に示している。そしてそれは『モデュロールI』の序文で彼が音楽の音階に触れている問題とも対応しているといってよいだろう。
彼は寸法は外法ではかられなければならないということをI巻でいっているが、それが空間の2m260を基本にした意味に結びつけて考えてみたい。床から天井の高さは内法高のように見える。だが人間の空間からすれば、それは外法と見ていいわけである。この単純な理論が現在に至るまで日本のモデュールの議論を混乱させ、また世界のモデュールの展開をおくらせてきたといってもいい。その意味ではコルビュジエが示した原点は明確なものであった。

だがコルビュジエモデュロールの現代的な意味での基本的な欠陥として指摘していいものは、前にも触れた黄金比であったかも知れない。黄金比が歴史時代を通じて多くの建築や工芸・美術を生み出すことに役立ってきたことはいうまでもないことであり、この黄金比コルビュジエモデュロールにまとめ上げるのに、フィボナッチ系列を組み合わせた。フィボナッチ系列とは、黄金比を足し算の関係に置きかえる見事な体系であったといえる。

http://www.kajima-publishing.co.jp/theme/syohyou/20010615.html


◇ 岸田日出刀/前川國男丹下健三──日本における建築のモダニズム受容をめぐって | 磯崎新+日埜直彦 聞き手 ‹ Issue No.41 ‹ 『10+1』 DATABASE | テンプラスワン・データベース

丹下健三のプロポーション
磯崎──ヨーロッパでの建築論の基本はギリシア以来、プロポーションですね。ヴィトルヴィウスのシュンメトリアとかモデュロスなんか。もう戦前から翻訳はあったから、これは常識になっていました。ただし、東大では岸田さんが教える枠なので、あんまり突っ込んで学んだ記憶はありません。それに対して、日本の棟梁たちが手がかりにした木割は知られてはいても現代につながるものとは考えられていなかった。石造と木造の伝統として眼前におかれたとしても、近代の構法とどのように関わるかといった視点は生まれていなかった。桂離宮や数寄屋の評価が近代建築家によって取り上げられたこと、それを単なる構成を超えて、現実に使う手法の系にまで導こうとした、こんな姿勢が当時の丹下研の存在をユニークにしたのではないかと思います。
もちろんル・コルビュジエの「モデュロール」なんかが現われた。プロポーションの系を黄金比に収斂するヒボナッチ級数とつなぐという芸当には感服します。その影響は絶対的でもありました。ル・コルビュジエモデュロールならこちらは木割だということで、《香川県庁舎》(一九五八)の頃、丹下研ではいろいろなプロポーションの図面を描きましたね。どれだけ微妙に変えるかということでした。丹下さんが、ル・コルビュジエモデュロールに近いヴァージョンを作ったりしました。巨匠と思われていたル・コルビュジエの方法から方向性を学びながら、日本的なものに読み替える。これは僕がうんと後に和様化などと言い始める遠い契機でもあります。丹下研が五〇年代にやっていただけでなく、日本の歴史を通じて同じ意図が働いていたに違いないと思ったのです。これは様式や形式ではありません。むしろ技法(RC造と木造)と重力(地震も含む)との間に生み出される空間の内部にひそむ比例体系についてです。

http://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/679/


◇ 広島の建築 | 広島平和記念資料館平和記念公園 | arch-hiroshima

わたくしはローマで神々の尺度によって建てられた建築の前で感動した。そこを発ってロンドンに着いた日のことをグロピウスにたどたどしく語った。グロピウスは、近代建築は人間の尺度によって建てられなければならないことをこんこんと語った。−(中略)−しかしその時、わたくしはすでに広島の陳列館で、人間の尺度を超えた尺度を採用していたのである。わたくしは、それを近代社会における群衆の尺度、高速度交通の尺度を考えているのであった。−(中略)−その後、コルブジエのマルセイユのアパートを訪れて、社会的人間の尺度とでも言うべき尺度によって構成されているピロッテイの下に立って、感動した。−(中略)−そうして日本に帰ったとき、丸の内や銀座の1階の家並みは、余りにも人間的であることに驚いた。その矮小さは、わたくしを圧迫し息苦しくさせた。それは余りにも非社会的であった。わたくしにはむしろそれが前近代的に思われた。−(中略)−わたくしは気掛りになって広島の現場に建設中の陳列館を見に行った。そうしてわたくしの意図がさほど間違ってはいないことを感じた。
(雑誌「新建築」1954年1月号より引用|一部仮名遣いなど修正)

丹下健三が初めて海外に行ったのはコンペで当選した「広島計画」をCIAMの大会で発表するために(ローマ経由で)ロンドンを訪れた時であるというから、この文章はその時のものであろう。グロピウスとはバウハウスの校長を務め、インターナショナルスタイルの提唱者でもあるヴァルター・グロピウス(Walter GROPIUS/1883-1969)、マルセイユのアパートとは「ユニテ・ダビタシオン」を指す。
グロピウスは丹下にヒューマンスケールの大切さを説き、丹下はそれを前近代的と切り捨てる。そして欧米を巡り再び広島の現場を見たときに自分の考えの正しさを再確認する。日本建築の脱ヒューマンスケール化の先頭に立つ、まさに開拓者だったことが伝わってくる。
ただし、住む家さえ事欠く極貧生活を送る人が多い中このような大建築を作ることには猛烈な反対があったことも事実で、丹下自身も葛藤があったと述べていることを付記しておきたい。

ところで、本作のピロティの柱については、コンペ時点では細い丸柱が等間隔で立っているだけのものであったが、当時建設中だったユニテ・ダビタシオンを参考とし、さらに伊勢神宮の力強さ(大地から立ち上がってくる感じ)を加えた結果、厚みのあるフォルムへと変わっていった。(写真#17)


では、人間の尺度と社会的人間の尺度について、もう少し詳しく説明しよう。丹下は両者の対位により建築を構成しようとしたと述べている。

わたくしは、広島の平和会館の実施設計にあたって、人間の尺度と社会的人間の尺度の二つの尺度の対位によって建築を構成してみようという野心をもっていた。最初に取りかかった記念陳列館では、社会的尺度による主構造にたいして、人間の尺度をもつ階段の踊場の流れや同じく人間の尺度による鳥籠構造をなすルーバーが交錯してゆくものであった。
(雑誌「新建築」1954年1月号より引用|一部仮名遣いなど修正)

具体的な数字は、10514 / 6498 / 4016 / 2482 /1534 / 948 / 586 / 362 / 224 / 138 / 86 となっている。これら数字は適当に設定してあるのではなく、ある数字はその直前の二つを足した数字になっており(例えば、6498 = 4016 + 2482 のように)、これをフィボナッチ数列という。ル・コルビュジェによる「モデュロール」と同じやり方であり、これは”丹下版モデュロール”ととらえていいだろう。

丹下は2482mmを人間の尺度、6498mmを社会的人間の尺度とした。断面図を見てみると、資料館のピロティ階高は6498mmとある。スラブ等で1534mm(2482の一つ下の値)を引くと4964mm、これを2で割ると踊り場の高さ2482mmとなる。(厳密には踊り場の天高は2482mmではない)
ちなみにスパンは10514mm(6498の一つ上の値)である。

続いて平面図を見ると、階段踊り場の幅は2482mm。階段とピロティの接点は4016mmであり、これは人間の尺度2482mmと社会的人間の尺度6498mmの間の数字である。ちなみに建物自体の奥行き(たぶん柱芯)は17012mmで、これは社会的人間の尺度6498mmとスパン10514mmの和である。実に緻密にフィボナッチ数列が埋め込まれているものだと驚かされる。

ここまでの記載で分かるように、これら”丹下版モデュロール”が一番明確に現れているのは階段の踊り場である。この踊り場の重要性を理解するには、建設当初はここが出入口であったことを知る必要がある。
つまり、訪問者は100m道路という都市の尺度を感じながら、社会的人間の尺度で構成された資料館を遠方から眺め、同じく社会的人間の尺度でできたピロティをくぐり、この階段踊り場で初めて建物本体にタッチする。そこで、人間を最初に迎え入れるこの空間は、幅も高さも「人間の尺度」こと2482mmで統一された…と解釈できよう。
果たしてこの空間が本当にヒューマンスケールなのかは、ぜひ各自で現地確認してみてほしい。

http://www.arch-hiroshima.net/arch-hiroshima/arch/delta_center/p-museum.html


◇ 都庁にひそむ黄金比 - 木全賢の工業デザイナー応援ブログ

実は、東京都庁舎にも、黄金比が隠れています。都庁の外観に黄金比があるわけではありません。都庁舎内部の天井高2250mmという寸法に黄金比が隠れています。

 都庁舎をデザインした建築家丹下健三は、「丹下モデュロール」によって、天井高を2250mmにしました。丹下健三が決めた「モデュロール」だから、「丹下モデュロール」と言います。

http://blog.goo.ne.jp/designerouen/e/2a3e9865c693d15b87dd07ba50753574


◇ 起きて半畳寝て1畳のモデュロール - 歩 あゆみ 社会科の算数
http://www3.synapse.ne.jp/kintaro/content224.htm