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福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

アメリカ合衆国の歴史 (1945-1964) - Wikipedia

本稿では、1945年から1964年に掛けてのアメリカ合衆国の歴史を扱う。この時代は冷戦の初期と公民権運動が特筆される。
アメリカ合衆国のこの時代は、第二次世界大戦による荒廃と共産主義からヨーロッパを救おうとした活発な外交政策の期間と見ることができる。国内においては戦後の短い移行期の後で、経済が急速に成長し、核戦争の脅威が世界中を覆った。より強力な武器で相手を威嚇する競争が始まった。国連軍が朝鮮に派遣されて共産主義勢力と戦った。ソビエト連邦共産主義諸国とワルシャワ条約機構を結成し、アメリカ合衆国を中心とする北大西洋条約機構 (NATO) 諸国に対抗した。
アメリカ合衆国内の大衆にとっては国際的緊張も国内の快適さで緩和された。特に1955年以降、高給を取り、大型高級車を乗り回し、家庭内では掃除機、洗濯機、トースター、ミキサー、アイロンなど手間を省略して家事を楽にする家電製品で生活を楽しんだ。21世紀初期に広く使われるようになったものはこの時代に初めて現れた発明だった。20世紀の初めに中流家庭では普通だった住み込みの女中や料理人は1950年代には事実上聞かれなくなった。自家所有者は温水で温められるセントラルヒーティングを取り入れた。新しいスタイルの家具は明るく、安く軽量であり、動かしやすかった。

"豊かな社会"と"もう1つのアメリカ"
第二次世界大戦が終わった直後の数年間は白人中流階級にとって概して安定と繁栄の時代だった。アメリカ合衆国はその戦争に向けられた力を急速に消費文化の方向に向けさせた。しかし、消費、郊外および経済の成長は、その繁栄が誰にでも広がっているのではないという事実に影を投げていた。多くのアメリカ人は、アイゼンハワー政権の間も特に老人や非白人の少数民族・人種の間では貧窮の中に暮らし続けていた。
戦後の繁栄の結果として、1950年代の中流階級文化の中心で消費財に対する需要が増し、消費財の多様化と使い勝手の良さが求められ、それに対する広告も増加した。1950年代と1960年代の豊かなアメリカ人は、自動車、皿洗い機、生ごみ処理機、テレビさらにステレオのような生活を豊かにするものを求めた。この時代の繁栄は投資ではなく、消費が推進力だった。
1960年までに自動車による移動距離が増すことで郊外人口は国内の3分の1までに膨れ上がり、デトロイトの自動車製造会社がさらに多くの自動車を生産するに連れて、国外の石油資源に対する依存度も上がっていった。郊外の成長要因は戦後の繁栄の結果としてだけではなく、一戸建て家屋市場の革新も貢献していた。ウィリアム・レビットはロングアイランドで大規模な住宅開発「レビットタウン」を建設するために大量生産方式を使い、国内のトレンドを作った。一方、郊外人口は戦後のベビーブームによっても膨れ上がっていった。郊外であれば大家族向けに大きな家が手に入り、都会よりも安全でありプライバシーが保たれ、消費財を置くスペースも確保できた。
郊外の大半に住めるのはほとんど白人に限られていた。少数のアフリカ系アメリカ人はそこに住むこともできたが、そこに家を持てるような資力のある豊かなアフリカ系アメリカ人にしても公式にしろ非公式にしろ障害に直面した。敢えて郊外に住むことにした数少ないアフリカ系アメリカ人は概して控えめなあるいは明らかな方法で付き合いから遠ざけられていた。地域社会の感覚を売りにしていた郊外住人はその快適性や均質性について後に批判に曝されることになった。実際に郊外には多く同じような年代と経歴を持った住人が住んでいた。

ディープ・サウスにおけるアフリカ系アメリカ人の状態
1950年代を通じても南部における選挙権差別は広がったままだった。アフリカ系アメリカ人小作人達は投票しようとしても白人農民に追い払われることが多かった。有権者登録委員会は資格があるアフリカ系アメリカ人の数を制限し、申請に来る者には白人より識字力の高い正確さを要求し、白人の申請者は自分の車の中や家でも登録が可能にしたが、黒人の申請者は後回しにし、裁判所の中でも黒人には別の登録場所を用意し、登録書の記入についても白人申請者のみに援助の手を差し伸べ、黒人の登録状況については何も告知しようとしなかった。
差別に抵抗した南部の黒人、特に小作人は選挙人登録から締め出された。田園部の黒人は常に雇用主から解雇するぞという脅しの中で生活していた。白人の中で「市民評議会」を自称する者達は抵抗する者に経済制裁を行う政策を採り、あるいはクー・クラックス・クランのような白人自警団組織は南部中で歯止めの掛からない統治を実行する場合が多く、アフリカ系アメリカ人の私刑は日常的なことであり、滅多に告発されることは無かった。1882年から1950年代初期までに国内で4,500人近いアフリカ系アメリカ人が私刑に遭った。


ブラウン対教育委員会事件」と大衆抗議
公民権運動の初期段階では、訴訟とロビー活動が人種差別撤廃活動の中心だった。カンザス州トピカでの「ブラウン対教育委員会事件」(1954年)、「パウェルアラバマ州事件」(1932年)、「スミス対オールライト事件)(1944年)、「シェリー対クレーマー事件」(1948年)、「スウィート対ペインター事件」(1950年)および「マクローリン対オクラホマ州理事事件」(1950年)における合衆国最高裁判所判決によって戦術のシフトを促し、1955年から1965年に掛けては「直接行動」が戦略になった。すなわちバスのボイコット、シットイン、フリーダムライドおよび社会改革運動だった。
「ブラウン対トピカ教育委員会事件」判決は黒人と白人の公共教育施設を分離することを明白に違法とした画期的な最高裁判所判決であり、公共教育の「分離すれども平等」の原則は白人アメリカ人が利用できるのと同じ基準の施設でアフリカ系アメリカ人を教育できるとは思えないという考え方に立っていた。アメリカ合衆国下院議員の82人と上院議員の19人が最高裁判決を非難する「南部マニフェスト」に署名した。
1951年、アメリカ合衆国カンザス地区裁判所においてトピカ市教育委員会に対する訴訟が行われた。原告はトピカの3年生リンダ・ブラウンであり、分離された学校まで1マイル (1.6 km) を歩くことを強制されていたが、白人の学校は彼女の家からほんの7ブロックの距離にあった。ブラウンの訴訟は全米黒人地位向上協会が後ろ盾となり、その主任顧問であるサーグッド・マーシャル(後の1967年にアメリカ合衆国最高裁判所判事に指名された)が弁論に立った。地区裁判所は、1896年の「プレッシー対ファーガソン事件」における最高裁判所判決を引用し、教育委員会有利の判決を下した。「プレッシー対ファーガソン事件」判決では白人と黒人について列車の中で「差別すれども平等」な設備を求める州法を許容していた。
1957年、アーカンソー州知事オーバル・フォーブスはリトルロック中央高校での人種差別撤廃を防ぐために州兵を使い、ミシシッピ州知事のロス・バーネットやアラバマ州知事のジョージ・ウォレスはそれぞれの州立大学で玄関を物理的に閉鎖させた。ミシシッピ州下院議員のE・H・ハーストは選挙人登録講習に現れた黒人農夫を追って殺した。アラバマ州バーミングハムの公共安全コミッショナー、ユージン・T・"ブル"・コナーはバスにフリーダムライドを試みる者への暴力を提唱し、示威運動者に消防ホースと警察犬を向けるよう命令した。アラバマ州ダラス郡の保安官ジム・クラーク血の日曜日事件の行進参加者にその保安官代理達を立ち向かわせ、自らは別の抗議参加者を脅した。南部中の警察官がでっち上げの容疑で公民権運動家を逮捕した。幾つかの州の全て白人の判事達はアフリカ系アメリカ人を殺害したとされる者達を無罪放免した。

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