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福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

CUT 2006/10 Book Review - YAMAGATA Hiroo: The Official J-Page

小説と抑圧の共犯関係から本書は目をそらしてしまう。

(『CUT』2006 年 10 月)

山形浩生

 アザール・ナフィーシー『テヘランでロリータを読む』に出てくる女性たちは、そうはいかなかった。これはホメイニ革命後のイランで、言論の自由も女性の地位もイスラム復古で弾圧されまくっていたなか、密かに英米文学の読書会をやっていた女性たちの半実話だ。そして、それはとても美しい話だ。彼女たちは、本当に当事者として抑圧され、弾圧をうけ、自由を奪われていた。でも、『ロリータ』をはじめとする小説を読むことが彼女たちの救いとなる。そこに彼女たちは、自分たちと同じ抑圧、他人の欲望のために苦しめられる人々たちの姿を見いだし、自分たちと重ね合わせる。逆境の中でそうした小説を書き続けた作家たちに思いをよせる。それはおそらく、理想的な本と読者との関係だろう。読者は――特に小説に対してまだ希望と幻想を持つ読者たちは――本書に描かれた小説との蜜月を羨望の思いで眺め、そして同時に彼女たちの置かれたつらい境遇――小説すら自由に読めず、議論もできない境遇――に思いをはせて同情することとなる。そうした逆境を救う小説の力とはなんとすばらしいものか。小説を、文学を読むことで、人はそうした他人の同情を思いやる気分が理解できるようになるのだ、と。そして行きがけの駄賃で、だから最近のガキどもが本を読まなくなったのは嘆かわしい、なんていうお説教もできる。

 でもそうじゃないのだ。それがこの本の持つとてもつらいところなのだ。この本の少女たちは、小説を読むことで他人を思いやる気持ちや身勝手な欲望の有害さを理解したんじゃない。彼女たちは、おかれた環境のせいで、どのみちそうした部分に敏感になっていただけだ。だからこそ、小説の中でそういう部分に反応できた。抑圧にもかかわらず小説の力のおかげで耐えられたのではない。抑圧されていたからこそ、小説は力を持ち、輝いて見えた。むしろ小説と抑圧は共犯関係にあるのだ。

 それはイランだけじゃない。ラテンアメリカ文学が驚異的な作品を機関銃のように量産していた時代――それはまさに、ラテンアメリカが政治的にひどい状況にあり、日常的に抑圧と不自由が存在していた時代だ。映画もそうだ。数年前に、奇跡のようなイラン映画が次々に公開されたのは、まさに本書と同じ環境でのことだった。抑圧が、小説を、映画を輝かせ、力を持たせる。逆にいえば、いまの日本をはじめ先進国で小説がかつてのような力を失っているのは、そうした場所で抑圧がすでに存在しないから、でもある。

http://cruel.org/cut/cut200610.html