Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20131110#p7)

佐藤守弘さんと前川修さんのはてなダイアリーより写真論&リーダー関連+α
◇ 『写真:リーダー』 - 蒼猴軒日録

アメリカの写真研究の系譜としては、至極大雑把に言うと、MoMAの写真部門を中心とするモダニズム美術史をモデルとして写真をフォーマリスティックに読み解く現場的な系譜(ニューホール→シャーカフスキー→ガラシ)と、それに対する批判から起こった『オクトーバー』誌などを中心とした理論的な系譜(クラウス、クリンプ、セクーラなど)がある(もちろんヨーロッパ系の批評もあるが)。アメリカにおける写真批評の系譜に関しては、ジョエル・エイジンガーのTrace and Transformation: American Criticism of Photography in the Modernist Periodが詳しい*1。
1980年代に起こった後者の動きは、Contest of Meaning: Critical Histories of Photographyというエポック・メーキングな論集にまとめられた*2。また、モダニズムからポストモダニズムという批評の流れを理論的に検証したのが、ジェフリー・バッチェンのBurning with Desire: The Conception of Photographyである*3。
ただ日本においては、ベンヤミン、バルト、ソンタグの御三家の写真論を除いては、Contest of Meaning以降の写真論どころか、シャーカフスキーによるモダニズム的アプローチさえもまともには紹介されていないのが現状である(翻訳しようという計画はあったんだけど)。
日本の状況はさておき、ポストモダン以降の写真論を概観できるのが、リズ・ウェルズの編んだこのリーダーである。写真関係のリーダーには、古典的な文章を集めたアラン・トラクテンバーグ編のClassic Essays on Photographyやヴィッキ・ゴールドバーグ編のPhotography in Print: Writings from 1816 to the Presentがあるが、現代における理論を紹介したものとしては、僕の知っている限りでは、この本が良くまとまっていると思う。編者リズ・ウェルズには、Photography: A Critical Introductionという、よくまとめられた本*4もある。
本論集は、八つの部に分けられており、それぞれは、総論(「御三家」を含む)、写真そのものの特性論、記号論的アプローチ、写真におけるポストモダニズム、デジタルの問題、記録とジャーナリズム、まなざし/視線論、アイデンティティの問題(CS系)、制度論について扱っている論が収められている。

http://d.hatena.ne.jp/morohiro_s/10001024/p2


◇ 『写真に関する古典的著作』 - 蒼猴軒日録

タイトルが示唆するように、『写真に関する古典的著作』は写真創生期からの「古典」的な著作を集めたものである(昨日のが「御三家」以後なら、これは「御三家」以前が中心)。昨日のリーダーとこの本(あるいはPhotography in Print)で、写真に関する言説の大まかな流れが把握できる。昨日のが院生向けとしたら、これは、学部生向けの「写真史」「写真論」「映像論」などという授業の教科書になるだろう。
写真の発明から、発展、さまざまな「主義」の登場と、写真に関してそれぞれの時代の人がどのような言葉を紡ぎ出してしてきたのかを、歴史を追って読むことができる。

http://d.hatena.ne.jp/morohiro_s/10001024/p1


◇ 『リーダー:視覚文化』 - 蒼猴軒日録

視覚文化に関するイギリス版のリーダーで、御大ステュアート・ホール(しかしこの人も「ステュアート」か「スチュアート」かはっきりせんな。検索しにくいったら)が編纂に関わっているオープン・ユニヴァーシティの大学院のメディア論専攻のための教科書である。表紙のロバート・メイプルソープによる黒人男性の写真が印象的である。「黒人」であること(更にゲイかも知れない)や、彼が視線をこちらに投げかけていることなど、まさに視覚文化研究の教科書に相応しい表紙である。学術書表紙ランキング1位!
アメリカ版に比べると、視覚文化クラシックスともいえるブライソン、バルト、フーコーベンヤミンソンタグドゥボール、マルヴィ、アルチュセールフロイト、ファノン、バーバなどが押さえられている点で、手堅い印象があり、教科書としては良くできていると言えるか。また、カルチュラル・スタディーズ第二世代のヘブディッジが入っている点、また上記の「クラシックス」のほとんどがカルチュラル・スタディーズの古典でもあることから、とりあえずこの本においては、「視覚文化」とは、「カルチュラル・スタディーズ視覚版」と捉えられていると言っていいだろう。やっぱりアメリカよりマルクス主義色が強い。
もう一つの特徴は、1章を使って、写真論--しかも80年代以降のいわゆるポストモダン写真論の成果--が紹介されていることだろう。その代わり、ここでも美術史色は後退している(プロパーはブライソンくらいか)。

http://d.hatena.ne.jp/morohiro_s/10001029/p3


◇ 蒼猴軒之書棚 - 蒼猴軒日録

蒼猴軒之書棚は、ブログで紹介した未訳の英語文献(特に論集)を研究対象別にまとめ直したものです。
目次
視覚文化Visual Culture: id:morohiro_s:10001029
風景/場所表象Topography: id:morohiro_s:10001028
美術史/美術館Art Hisoty and Museum: id:morohiro_s:10001027
物質文化Material Culture: id:morohiro_s:10001026
文化/社会/歴史Culture, Socity and Hisoty: id:morohiro_s:10001025
写真Photography: id:morohiro_s:10001024
音/聴覚文化Auditory Culture: id:morohiro_s:10001023

http://d.hatena.ne.jp/morohiro_s/10001030


◇ Duboisの写真論とか - はてなStereo Diary

morohiro氏による写真論紹介もついでにご覧あれ(http://d.hatena.ne.jp/morohiro_s/20051212)。

もっと写真についてたくさん書いて、軌道に乗せて、こういう本を根こそぎ紹介していかないとならない。そう言いつづけて数年経つ。でも全然あきらめてはいない。

というわけで翻訳を出してくれる出版社募集。

ひとつ追加。写真論であまり指摘されないし、訳されていないもの。

下記に挙げるのはドイツ語版。

Der fotografische Akt. Versuch ueber ein theoretisches Dispositiv

作者: Philippe Dubois
発売日: 1998/05
メディア: Perfect

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20051212


◇ あいのり紹介 - はてなStereo Diary

ひとのネタにあいのりして申し訳ないが、写真論のアンソロジー決定版はケンプが編集した次のシリーズである。これは4巻本(第4巻はアメルンクセン編集)。セレクトに偏りはあるが、現代まで網羅されている。絶版扱いが多いがなぜかドイツの本屋にはごっそり並んでいたりするそうな。

Theorie der Fotografie 1. 1839 - 1912

作者: Wolfgang Kemp
出版社/メーカー: Schirmer /Mosel Verlag Gm
発売日: 2002/09
メディア: ハードカバー

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20051213

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◇ バルト論 - はてなStereo Diary

Shawcrossのバルト論(Roland Barthes on Photography)を読む。これはかなり希少な本。というのもバルトの写真論に関して、『明るい部屋の謎』以外、きちんと議論した本がなかなかない。さらに言えば、彼の『神話学』以来の写真についての言及すべてをその視点のズレや重なり合いを整理した文献は稀有。いやそれより以前に、バーギンやタッグらの70年代のバルト評すらほとんど紹介されていないというのも、変な話である。ともかく彼が写真へ焦点化していく過程における――一見写真とは無関係に思える――テクストをおさえつつ、明るい部屋で潜在的に想定されているいくつかのテクストを明瞭にしていく作業が必要。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20040901


◇ 作業中 - はてなStereo Diary

 バルト考を引き続き進める。…以前、ある人から「写真論ってバルトの『明るい部屋』で終わりでしょ」、という意味合いのことを言われたことがある。存在論とコンテクスト論という選択肢は、どちらも厄介であることはたしかである。一方でコンテクストを超え出てしまう部分を指摘する必要があるし、他方で存在論をなんとか解きほぐす術が必要。その手始めとしてバルトが写真発明来のある言説の系統を引き継いでいるという部分を言説史の観点から相対化した文章を読む。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20040903


◇ 視覚的無意識にコメント - はてなStereo Diary

視覚的無意識にコメント求むとのこと。

 ⇒昨日のコメントと次の日録を参照 http://d.hatena.ne.jp/morohiro_s/20041024

 聴覚的無意識と視覚的無意識の比較については準備立てがないのでなんともいえないのだが、以下感想のようなもの。

 写真を語る際に「視覚的無意識」を語るのは常套句となっている。ソースはベンヤミンの複製芸術論。写真による記録の過剰さと均一性や非選択性と日常的視覚の選択性や意識の志向性とを対比させる議論は、ここに由来しているのかもしれない。あるいはそこから写真のおぞましさや不気味さや他者性を引き出してくることもできる。

 ただし、「視覚的無意識」をどのような文脈で用いるかのほうがむしろ重要な気がする。それを都市論や写真論とともにある文脈に置いてみるのか、それともメディア論として『グラモフォン、フィルム、タイプライター』のように精神分析とともに語るのかとか、一般化したいのか特殊化したいのかとか。

 たぶん厄介なのは、視覚的無意識と口にするとそれで話が終わってしまうところなのではないだろうか。実際、かなりの幅の種類の写真に関して、この言葉は使えてしまう。そしてこの概念が口にされると(定義すらなされていないのに)話は終わってしまう。無差異な表面としてのこの語にすべては還元されてしまう。むしろ何らかの差異化が必要なのかもしれない。

 以前、僕がやろうとしたのは――まだ全然満足のいくものではない――そうした常套的な停滞の先に進んでこれを構造化できないものかという問題であったような気がする。装置をモデルとした、ある歴史的文脈に属しながらそれを反省しようとした装置論として抽出できないかと…。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20041024


◇ バルトとデジオ - はてなStereo Diary

 講読2本。バルト『写真のメッセージ』は今日でほぼ終了。3種の共示の話をくぐりぬけて外傷的写真の話に着地。ただし次回には総まとめとしてメッツやエーコも含めて類像性の問題も追加することになる。これにバザンも加えてとりあえずこの問題圏の素材は出揃うことになる。リズ・ウェルズの『写真論読本』(http://www.amazon.com/exec/obidos/tg/detail/-/041524661X)を持ち帰る。バルト、メッツ、エーコバーギンの流れが手短にまとめられている章がある。これは必読本。『映像の修辞学』は駆け足で片付ける予定。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20041104


◇ 私写真? - はてなStereo Diary

 写真集論を考えていると、やはりアルバム論に目が行き、しまいには私写真論までが芋づる式にくっついてくる。飯沢氏は自然の鉛筆を私写真的なものと見なしている。たしかに写真が本来的に私写真であるという主張は分かる。撮影にはつねに私と被写体の関係が何らかの形で滲み出してしまうからである。しかし、『自然の鉛筆』に、「私的な眼差し」に貫かれた「日常的な親しい出来事の場面」の不思議な魅力と現実世界の精密な記録の機械的複写能力の証左の混在という分裂した萌芽的で混沌とした状況を確認するだけでは、何か物足りない気がする。これを引っかかりにしていく。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20041218


◇ 困る - はてなStereo Diary

 先日も書いたが、私写真論について考えている。夏に出した心霊写真論はこの裏返しの議論であったことをいまさらながら再確認する。私写真論を書こうと思う。その手がかりは本当の私写真である。つまりそれは「私写真」という公の流通ルートをはずれてこぼれた私の写真の残骸を拾い集める作業になる。コンセプトだけは立てておく。

 私写真論あるいは写真史の議論に関して、受容という側面、言説という次元がかなり欠落していることは大きな問題であると思う。作者と作品の軸線だけがあまりに肥大していること、それが写真というメディアゆえなのか――そんなことはないと思うのだが――、写真はやはり俳句的なものであり小さな共同体で閉じた議論しかできないゆえのか、受容の側面をあらうことはそうした言説の力学に介入することになると思う。少なくともトラクテンバーグの議論ぐらいは共有できる次元が必要であろう。実に困ったものだ。

 デジグラフィについては写研の掲示板に書いておいた。これも困ったものだ。上記の心霊写真論でも少し書いたが、理論的スタンスが明らかになる踏み絵であることは間違いない。

 ふと見ると「誰も困らない」という書き込みに少し補足をしたくなる。僕もそういう書き込みで議論が流れても困らない。だからそんな書き込みに反応しなくても困らない。ただ、困らないという事態に困ってしまうことも実はある。逆に困ったふりをしてまったく困っていない人もいる。そういう事態に僕は困ってしまう。何のことか? それは推測してほしい。

 ああいうトークはもう少し写研の若手が切り込んで盛り上げてほしい。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20041223


◇ 彫刻写真と地上の星 - はてなStereo Diary

 論文集『彫刻と写真』からジョエル・スナイダー「19世紀の彫刻写真と代替の修辞」を読む。19世紀半ばから彫刻を撮影する際のアングルや照明が画一化し、撮影者を透明な存在にすると同時に写真をも透明なものにした経過がおさえられている。ただし、肝心のトルボットのパトロクロスの彫像写真についてはいまひとつ煮えきらず。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20050108


◇ しめきりの将棋倒し - はてなStereo Diary

 たしかに写真そのもののレイアウトやシークエンス、そしてそこに潜在的にでも付随する言語によって、写真が意味づけられある政治的機能を担いイデオロギーに仕えていることは確かであり、そうした作用をもつ写真という「透明」と想定された映像は効果的な媒体となりうることも明らかである。そして、そうした意味づけられイデオロギーづけられた世界の所有のために写真が利用されている、あるいはそうしたイデオロギーに逆に写真を観る者が所有されているという話は別にこれまでも繰り返されてきたと思う。そうした所有に対する批判的分析としていくつかの写真論は書かれてきた。つづく

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20050228


◇ 今期の木曜 - はてなStereo Diary

1回生向け写真論入門講義、学部院生向け視覚装置論講義、同じく英独書講読。

最後に挙げた講読はクラカウアーのテクスト『映画の理論』を読むことにした。これはハンセンが序文を書いている版。まずこの序文を片付けて独英で平行して進める予定。ハンセンの紹介はこちら⇒(http://humanities.uchicago.edu/cmtes/cms/faculty/hansen.html)。またクリカル・インクワイヤリー誌でのシンポ関連での彼女の報告はこちら⇒(http://www.uchicago.edu/research/jnl-crit-inq/issues/v30/30n2.Hansen.html

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20050414


◇ 敷居の上のトルボット - はてなStereo Diary

 ハンセンのクラカウアー論を読み進める。バザンと変わらず写真のリアリズムを根拠にした彼の議論は、しばしば批判を被ってきた。こうした読みからクラカウアーをもういちど別の次元で救い出そうとする企図がまず語られる。彼女は挑発的にデジタル技術によって参照物なきままにイメージ製作がなされる現在、こうしたリアリズム論がもつ価値はどこにあるのかという問いを提起し、それをかわしつつ議論していくのである。お手並み拝見である。昨日挙げた恐竜視覚論はとりあえず合間を見て訳す。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20090205


◇ 青色植物写真 - はてなStereo Diary

 学生が『ディルタイと現代』という論集に所収の論文、前田富士夫「ファクシミリと体験/理解」をコピーしてくれる。ざっと読んだが、ヴェルフリンが写真メディアを全面的に否定したという主張の部分が気になる。私のスライド論とは逆の主張。彼は優れた「スライダー」(スライドを効果的に使う演者)だったのである。制度や美術史家の機能や画像の流通が及ぼす働きを抜くとそうなるのかもしれない。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20050525


◇ こってり - はてなStereo Diary

午前発表ゼミ。今日から卒論プレゼンシリーズ。

モネと美術市場、ティルマンスの「私」性についての発表を聞く。

前者は焦点がぼやけていて建て直しが必要な感じ、後者は「私」の意味合いをもう少し理論固めしないとティルマンス分析にはなかなか適用できないという気がした。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20051026


脳トレもの - はてなStereo Diary

テレビのエコーグラフィー デリダ〈哲学〉を語る

作者: ジャック・デリダ,ベルナール・スティグレール,原宏之
出版社/メーカー: NTT出版
発売日: 2005/08/30
メディア: 単行本

出ていたのか…。『視線の権利』『盲者の記憶』に続くデリダの写真論を読み取ることができる。ドイツでのデリダのメディア論紹介者、ヴェッツエルによるインタヴュー「コピーとしての写真、アルシーヴと署名」(1992)を再び訳しはじめる。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20051030


◇ 青写真 - はてなStereo Diary

発表原稿もないままに要旨を書く。

まさに青写真的写真論を考えている。

お題はここ20-30年の写真(芸術)の変化について。

そしてそれに対応した(対応していない)写真(芸術)論の変化について。

その前に放り出していたバック=モースのインタヴューを読む

Aesthetics after the end of art: an interview with Susan Buck-Morss - Aesthetics and the Body Politic - Interview
オクトーバー77号のインタヴューも読み直し(訳を少し改める必要あり)、以前読みかけの同氏の論文も引っ張り出す。彼女はタイトルのつけかたが絶妙である。

http://homepage1.nifty.com/osamumaekawa/october77.htm
Aesthetics and Anaesthetics
写真の70年代の状況について、以前読んだはずの

クリストファー・フィリップス「写真の審判席」
ソロモン=ゴドー「芸術写真以後の写真」
も読み返す。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20060404


◇ シアトリカリティの分裂 - はてなStereo Diary

フォトグラファーズ・ギャラリー第5号の特集「写真のシアトリカリティ」をようやく読む。仕事の関係上――パノラマ論、かわいいとキャンプにおける距離、ケータイ論、写真史/写真論、他にもいくつかやりかけている問題も含めて――、(非)シアトリカリティで整理できそうな気がしているということもある。

 林氏の分かりやすい見取り図が参考になる。美術館における芸術写真と美術における写真の流用の乖離が指摘されている。フリードの前提にしていた二分法をそもそも最初から侵食していた写真、アーカイヴという問題、これも肯ける。土屋氏や倉石氏の論考も問題の整理上、参照文献になる。

 もちろん、上記の問題を考えているため無理な注文かもしれないが、いくつか疑問点もある。例えば、写真の終わり以後のデジタル写真のシアトリカリティの問題。時間を見て続きを書く。 

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20060504


◇ リアル顔面批評 - はてなStereo Diary

昨日の長谷氏の議論にひっかけて言えば、

顔の問題はリアルさを遠ざけて記号化しているわけですが、同時に、実はありもしない本物の顔をどこかで作り出そうとしていると思うんです。ここ20年ほどで、顔は完全に記号化されました。…〔中略〕…だから、テレビはリアルさをフレーム化によって遠ざけながら、逆にそれを欲望もしているのです。

ついでにもうひとつ。

だから私たちは彼女〔ナンシー関〕の仕事を受け継ぎつつ、いまや「顔」自体がもっているリアルさと向き合わなければならないと思うのです。

ただし、、、この「顔」が古典的な問題構制(顔と身体、能動と受動)からはずれるものであることは確かだと思う。レヴィナスの顔についての論とか、他にもドゥルーズ=ガタリの顔貌性とか、ベンヤミンの死相とか、ごそごそと引き出してみる。

もちろん写真にもこの問題はかかわってくる。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20090205


◇ 手の写真等 - はてなStereo Diary

 手というのは、写真にとっては独特な意味をもつ。それは写真が従来の芸術のように創造的な手を介在させない媒体であったからかもしれない。その代わりに、手の欠落を補うようにして、手が被写体として写真の中に登場する。それは一方では、手が光の接触した痕跡としての写真を比喩的に示しうるものであり、そして他方で、写真を触れる数々の手との隣接的=換喩的な接触を喚起しうるためのものだったからではないか。例えば手のダゲレオタイプが例として少なくないのも、あるいはダゲレオタイプにはそのダゲレオタイプを手にした被写体が画面の中央に位置したものが多いのも、こうしたことが一因になっているのかもしれない。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20060514


◇ 次 - はてなStereo Diary

Photographs Objects Histories: On the Materiality of Images (Material Cultures)

作者: Elizabeth Edwards,Janice Hart
出版社/メーカー: Routledge
発売日: 2004/03/25
メディア: ペーパーバック

紹介されていたこの本がようやく届く。序文を訳しはじめる。プリクラ論も載っている――かなり古い堂本兄弟のフレームが堂々と掲載――この論集は使いでがある。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20060528


◇ カメラ・オーストリア - はてなStereo Diary

『カメラ・オーストリア』についてもきちんと書いておかないとならない。

『ヨーロピアン・フォトグラフィ』や『ヒストリー・オブ・フォトグラフィ』に並んで、現在の写真史、写真論の状況を知っておくには必読雑誌。大部分が英訳つき。ただ、なかなか日本にはおいてあるところがない。私自身も、以前ドイツでコピーしたきりになっていた。たしか、フロイトと写真についてのヴァイベル論文も初期に掲載されていたはず。photographer’s galleryにはけっこう以前のものまでバックナンバーがある。これは買い。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20060619


◇ 遺影以上心霊未満 - はてなStereo Diary

プリクラ論を読む。すでに西村『電脳遊戯の少年少女たち』や四方田『「かわいい」論』でも議論されているが、もの写真としてもう少し違う角度から議論できないかと考える。屋外のなかの内である親密な空間、シールというもの、その交換性、フレームや書き込みの多様さ、そのストックのされかた(アーカイヴ性)、地域性と散在性、その空間の歪曲と虚構性、あげつらっていくだけでももの写真論の重要な要素が箇条書きリストになる。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20060817


◇ 花環のなかの写真、彼岸の手前の写真 - はてなStereo Diary

 バッチェン「ポスト写真」を読む。中心に据えられるのは写真をもとにした立体作品を展示した「Photography into Sculpture」。さまざまな造形作品が数珠繋ぎに並べられる内容であり、いまひとつ核心に向かうような論文ではない。しかし、写真以後とかデジタル写真ってどうよ的な質問にたいしていくつかの応えがとりだせる考察である。

 「写真が絵画という亡霊に苛まれているとよく言われたものだ。よく言われたものだ、というのも、写真は現在それ自身がまさに憑依をしている亡霊であるからだ。写真がかつて絵画イメージの慣習や美的価値にしたがって評価されていたのに対して、今日、写真はもっと入りくんだものになっているのははっきりとしているのである。ここ20年にわたって、写真と、例えば絵画、彫刻、パフォーマンスなどの他のメディアとの境界線は、しだいに穴だらけのものになっている。それぞれのメディアが他のメディアを自らに取り入れ、その結果、写真の所在はどこにでもあるが、とくにどこにもないものとなっている。多くの批評家が、新たな写真のシミュレーション技術の趨勢のもとでの写真の「真実的効果」の喪失を嘆いてもいる。…〔中略〕…こうしたシナリオの皮肉さは、さまざまな慣習や参照の豊富な語彙としての写真的なものが、よりいっそう輝きをはなって生きつづけているのに、独立した存在としての写真が、永遠に消え去ろうとしているという事態にある。要するに、私たちはすでに「ポスト写真」〔時代〕に入り込んでいるのだが、その時期とは写真の後の時代ではあるが、依然として写真を越えた時代ではないように思われるのである」。

こうした写真と写真的なものの間の時代を如実に示している例が、写真に関連した、もっと言えば、写真と外界との特権的な関係を疑問に付し、写真の対象性を強調するような作品であるという。空間のなかに量塊をそなえて繰り出されてくる不透明で抵抗感を引き起こすものとしての写真が、写真的なものとの間へと置きずらされる。


 こうした一例として1970年代開催の「Photography in Sculpture」展がある。だが、その志向は、すでに60年代以来のコンセプチュアル・アートでの写真の試みと重なりあう部分が大きいという(ルシャの蛇腹の写真)。他方で、80年代になるとこうした空間への展開ではなく、むしろ写真の内部での空間性の展開が追求される。例えばホックニーのあのポラロイド写真は、複数の時間の奥行きを取り込み、写真の縁を重要な部分として呈示したのだという。もちろん話はそれほど単純ではなく、80年代から90年代にかけて、写真の立体化と立体化したモデルの撮影という二つの流れは相互に混ざり合ってはいる。

 このように所与の条件としての写真をさまざまな仕方で変異させる芸術の動向。写真という過去の表象のシステムを参照点にしながら、それを歴史的な距離やズレをはさんで追悼/追憶するような写真を用いた作品の試み。ここにはもはやどこにもない写真があるときはイメージとなりあるときは物質になり、他の素材と参照しあい、自らの同一性を先送りにして自らを反復していくという、写真的なものの全面的憑依のプロセスを見てとることができる。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20060823


◇ つまり報告3――学校の階段―― - はてなStereo Diary

階段は通常、ただの通過点にすぎない。それはとりたてて注意をひくことはない。立ちはだかって視界をふさいだり、急いで駆け下りたりするための経路としての縞模様の壁や地面にすぎない。しかし階段は時として来るべきものへの期待を高めもするし、不安定に足元に注意を傾注させておきながら、突如開ける視界を横殴りに送りとどけることもあれば、視野の開けない暗闇の中に誘うこともある。階段は光と闇、言い換えれば、視野と視野の向こうを分割してその間をつなぐ装置になる。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20060904


◇ デジタル写真のなかのもの写真論 - はてなStereo Diary

『写真、もの、歴史』に収められたサスーン「デジタル複製の時代における写真の物質性」を読む。

 この論文の概要は、以下の通り。

 デジタル・コレクションなるものが、数多くの制度機関で作られている。それはさまざまな写真(およびその他の所蔵品の)コレクションをデジタル写真としてウェブ化していく作業である。収蔵品への容易なアクセス可能性、保存可能性の増大、たしかにデジタル複製技術はデモクラティックな過程を推し進めているかのように見える。各種のイメージアーカイヴも同様である。しかし、ここではオリジナルの写真のデジタル化において失われていくもの、写真に基づく各種研究において見失われていくものについての議論がほとんど行われていない。デジタル化は技術的過程であると同時に文化的過程でもあるのだ。

 デジタル化によって従来の写真はただその物質的基盤を変更しただけにすぎないように見える。イメージのコンテンツをみるための中立で透明な像。しかしそのように思いなさせているのは、写真が属している言説空間ゆえなのであった(タッグ)。デジタル化によって失われるもの、見えなくさせられるものは、写真をめぐる三つの特徴――写真というものの物質性、オリジナルの写真という概念、写真の意味のオリジン――を尺度にすることで明瞭になるのではないか。

 写真は写真のサイズや焦点の合わせ方、表面の繊細な光と影の連続的関係、ネガや紙の表裏から製作の情報を知らせるし、さらには、加えられた修整やキャプション、裏の書き込みや損傷部分までも写真の後の生を詳述する情報になる。デジタル化によって、多様な形態をした写真は基準化されていく。触覚性、不透明性、ボリュームをそなえたこの世の存在(バッチェン)が、決まったサイズ、質、調性の幅におさまるものへと一次元化されるのである。ウェブ上でいわばそれは、つかのまのエーテルのような存在=霊になる。

 こうしたシフトの結果、デジタル化においては、イメージのコンテンツへと注意は集中され、より広範囲な普遍的イメージ一覧を作成する傾向が強くなる。ここには写真の意味を形成していた製作、使用、収集、保存にかかわったコンテクストから写真は切り離され、写真コレクションは、セクラが批判的に述べる意味での「クリアリングハウス」(セクラ)や「コレクション」と化す。デジタル化される写真の選択の原理も特徴的である。美的な写真が選択され、劣化した写真、処理が未決の分類困難な写真が捨象される。こうしてデジタル・コレクションにおける選択原理は、保存収集の言説空間から市場という言説空間へのイメージの移行を余儀なくさせる。ショーウィンドウ化するスクリーン。

 ウェブサイト化されたそうした例に挙げられるのは、ピクチュア・オーストラリアである。このサイトのサービスは、複数のオーストラリアに関わる主題のイメージ・コレクションの横断検索である。同種のこうしたサイトと同様、顕著なのは、サムネイル大の画像がグリッド窓状に集まったディスプレイ、最小限のキャプション、イメージ個々の遊離化であり、その拡大は、イメージからの距離を保持したまま、行うことができる。

 これに抗するモデルとしてアーカイヴ(セクーラ)を挙げることができる。それは、コンテクストと写真、認識とその権力の関係する構造をドキュメンテーション作業に含みこんだ情報の収蔵体のことである。こうしたアーカイヴ的な側面をウェブサイトの現今の基準化に組み込んでいくための何らかの規準が必要である。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20060907


◇ クローンとしての写真、遺伝子工学としての複製 - はてなStereo Diary

 1996年コービス社(www.corbis.com)がアンセル・アダムスの電子的複製権を獲得したことが公表された。現在70万枚に達する数のイメージを世界中の制度機関から次々とそのデータ・バンクに加算していく同社は、ウェブサイト、CD-ROMを介して、その使用権を顧客に販売することを目的にしている。こうした複製への、複製の権利へのあくなき追求は、コミュニケーション、エンタテインメント、コンピュータ産業が互いに合併して形成する多国籍的な巨大な一元的市場の形成に対応してのことである――その反応のあらわれのひとつがインターネットであり、先に挙げたイメージのコレクションの形成の試みである。

 電子的複製市場の支配、これによって、コービス社は、「歴史」という一般には素朴に公共のリソースとみなされているものへの統御力を同時に獲得する。事実、同社の目的は人類の歴史を通じての経験全体を手中にすることであるとまでいう。コービス社は、私たち自身の、私たちの文化についての自身の記憶を複製する権利を販売することになるのである。このイメージ・コレクションはさまざまな商業的な用途に応じて検索可能であり、そのつど鮮やかな複製を供給してくれる。いわば人間の経験は商業的な写真という羊膜に包まれるようにその羊水のなかで浮遊しているかのようなのである。

 しかし、興味深いことに、ビル・ゲイツによれば、彼の関心は写真の蓄積にはないという。むしろ写真のデータの総体的なフローを統御することが彼の関心にはある。

ここでアダムズの写真について考えてみよう。たしかに顧客は同社からアダムズのある写真の電子複製使用権を得る。しかしその販売の目的は、「楽譜」に対する「演奏」権ではない。むしろ、遺伝子工学におけるクローンのように、デジタル化を通じてのコピーとオリジナルとのまったき一致ということが同社のもくろんでいることなのである。たしかに、注文におうじて遺伝子コードからクローンされる同一のイメージ、それは何度作り出されても同一のものであるように思える。写真遺伝子工学(photogenics)、バッチェンはとりあえずこう呼ぶ。

 しかし、こうした試みに、当のアダムズの『月の出』をつきつけてみると、事態は別の見え方をしはじめる。この写真は彼のゾーンシステムの初期の所産であり、彼は1941年から同じネガを用いて少なくとも1万3千枚のオリジナルプリントを作成しているのである。言い換えれば、ある写真の同一性全体を保証してくれるような起源、つまり一枚のネガ,プリントはどこにも存在せず、むしろ、写真の同一性は各々がその他のものを参照させるひと連なりの動きのなかのもろもろの差異のなかにあるとしかいいようがない。

写真の同一性と差異は、クローン化の従う論理と類比的に考えることができる。クローンとは、未受精卵に「分化させた〔differentiated〕」ある有機体のDNAのサンプルを注入してもうひとつの有機体をコピーすることである。もっともそのコピーはつねに同一のものではなく差異を帯びたものである――クローンは本体よりも若い等――。自らを差異化し、分化させることによって生み出される複合的な同一性、同一で異なるもの、それがずれた増殖や複製の契機になりうる。コービス社の電子複製ビジネスの皮肉は、ここにある――フォトジェニックスの(非)論理に従っていること――。もちろんビルはそんなことは問題にもしていないが。

その後、バッチェンの議論は、ありとあらゆるイメージアーカイブをサーフするものが陥っていく時間的、空間的論理に言及し(無時間的な非空間的な現前)、さらにはこうした複製の論理は別に写真のデジタル化にとどまるものではないことの指摘へと及んでいく。ヒトゲノム計画、遺伝子操作された家畜や農作物、それらが示しているのは、データの蒸留や交換のエコノミーであり、コービス社が試みているのはここに電子的なイメージのデータの交換のエコノミーを参与させることなのである。現実と表象、オリジナルとコピー、自然と文化というよりも、一連のデジタルコードや電子的信号の布置、それがイメージおよび他のものの存在や外見や意義を決定することになる。私たちの文化を規定しているものはそうした流れや交換、複製やその消費なのである。このようにいつものようにバッチェンはしめくくる。

 バッチェンのいつもの議論ではあるし、おとしどころが逃げどころになっている観は否定できない。しかし、写真を起源に拘束しないということ、写真のもの性自体がある再考を促されていること、ウェブサイトやインターネット上の非空間=非時間でのイメージの可能性を測定するための道具を呈示していること、そうした点では参考になる議論である。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20060908


◇ アルバムの運動 - はてなStereo Diary

他の「もの写真」と同様、アルバムも触覚性を強く喚起する。浮き出し模様になった革の表紙、それを机や膝の上に置いたり、掌で支えながら捲る動作――ちなみに本の形での写真の受容は時代をかなり遡るものである。例えば、名刺判写真も、本の形で集積され、並べられページをめくって享受されていた――。現在のアルバムも、ふわふわしたあの触感に包まれている。ともかくアルバムの多くは、家族の単位を再確認させ、今ここにはいない子どもや近親者たちの代替物としての写真をとりまとめ、物語る「もの」であった、そこには触覚を刺激する要素がつねにともなわれていた。

 しかもアルバムは、ただ本の形態を採っているだけではなかった。それを飾る台がそなわっていて、場合によっては背後の鏡と一体となって、観者がページを捲るとともに、鏡の上の自身の像を確認するものもあったというし、ある種祭壇のようになった場所に設置される類のアルバムもあったという――重厚な中世の時祷書や聖書のようなアルバム――。そのバリエーションは各家庭のアルバムの所有者の数だけあったそうである。こうした複数の見方、呈示の仕方も含めて、変幻自在な動的な見方、それがアルバムの見方であった。静止した写真がこうした文字通り動かされるとともに、ある物語へ向けて運動を始める。

 あるいは、機械的に正確な客観的過去の像という写真の性質とは対照的に、その縁に施された書き込みやフレームによって、被写体と結びついた欲求や夢想へと写真の注意を促す点も注目すべきだろう。そして写真は思い出を喚起する他のものとコラージュされてページの面を構成する場合もある。さらには文字の書き込みやそこでの被写体の呼称も重要であるし、アルバムの被写体がそうした家族に属する物語りのなかのどこで途切れるのかという問題も重要である――あれだけ多かった子どもの写真がその反抗期を迎えて数少なくなり、彼らが大学に入ると欠落し、ふたたび姿を現すのは家庭をもって孫をともなってからのことになる――。

 こうした複数枚の写真による物語化は、各々その写真が撮影された時代の社会的集団の編成という文脈にひきつけてひとまず話は組み立てられるだろう。あるいはそこでは絵画的慣習と写真との連続性と非連続性もトピックになるだろう。

 しかし私が関心があるのは、その物語のある種のパロディであるプリクラ写真実践や、現在の写真における私のありかたの微妙さでもある。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20060913


◇ 写真の手分け - はてなStereo Diary

 2004年にグッゲンハイムで開催されたブール・コレクション展をめくる。

 このコレクションは、写真を写真史全体にまたがる手に関連した写真1万枚を集積したものである。図録は、科学写真やジャーナリズム写真から芸術写真まで、有名な写真家の手によるものから無名の撮影者によるものまで、多種多様な豊富な写真図版に、四本のエッセイ(論文)もつけられており、写真と手という問題を考えるうえで貴重な資料のひとつになる。

 そのひとつ、ブレッシングの論文から簡単にポイントを引き出しておく。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20060914


◇ 写真の手先と小手先 - はてなStereo Diary
http://d.hatena.ne.jp/photographology/20060915


◇ 手を結ぶ/手を切ること - はてなStereo Diary
http://d.hatena.ne.jp/photographology/20060916


◇ 浮遊する手 - はてなStereo Diary
http://d.hatena.ne.jp/photographology/20060918


2006-10-05 - はてなStereo Diary

 以前紹介した『フィルムとスクリーンのあいだに』を読む。

 映画の中で用いられる写真の用法はあまり言及されることがない。映画を論じるひとは物語のための道具立てとして軽く言及するだけで、他方で写真を論ずるひとは、それが映画であるからあまり関心をもたないような気がする。写真を映画にとりつかせる、そんな作業も写真論には必要なように思っている。

 この本は、映画の基層にある写真の、映画の物語的流れの中で突如の介入や垂直の切込み、言説のなかで抑圧された不気味な写真の次元を、映画に出てくる写真をなめるフォトパンと突如現在形の進行が停止させられるフリーズフレームを例に議論する書のようである。レトリカルで少々読みにくいが、映画内写真やフリーズフレームのさまざまな用法が列挙されていてこの問題の参照資料とすることができそう。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20061005


銃口と椅子 - はてなStereo Diary

セクーラのPhotography against the Grainがベルリンの図書館にあるとの情報をもらう。これでようやくセクーラの書いたものや仕事全般に目を通すことができそうである。

これも到着。Allan Sekula, Dismal Science Photo Works 1972-1996

1972年から96年までの彼の仕事が収められている。写真論として未見であった論考やインタヴューとして

Dismantling Modernism,Reinventing Documentary(1976/78)

School is a Factory(1980)

Photography against the Grain(1984)

Some American Notes(1989)

Imaginary Economies:An Interview with Allan Sekula(Debra Risberg)

が掲載されている。表紙の写真、その拡大写真はWar without Bodiesという作品の一部。

Photography against the Grainは同タイトルの書のイントロにあたる。インタヴューは96年までの彼の仕事を振り返ったコンパクトな見取り図。Againstと対にして、軌跡が明瞭になるかもしれない。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20061113


◇ 写真論なんていらない? - はてなStereo Diary

■写真論なんていらない

STUDIO VOICE (スタジオ・ボイス) 2007年 01月号 [雑誌]

出版社/メーカー: INFASパブリケーションズ
発売日: 2006/12/06
メディア: 雑誌

内容はこれ。

…だからそれに焦点を合わせるのが写真論なのよ。

そこんとこよろしく。


■セクーラ文献

ベルリンにいる学生がセクーラ文献(『カメラ・オーストリア』所収論文)をまとめてくれた。感謝。未見文献が2、3、4、6.

1. Sekula, Allan: A portable national archive for stateless people: Susan Meiselas and the Kurds / Ein tragbares Nationalarchiv für ein staatenloses Volk: Susan Meiselas und die Kurden, in: Camera Austria 95/2006

2. Sekula, Allan: Titanic's wake, in: Camera Austria 79/2002

3. Sekula, Allan / Werneburg, Brigitte: In der Bucht von Vigo / At Vigo bay, in: Camera Austria 59/1997

4. Sekula, Allan / Wolf, Herta: Technizität oder Diskursivität? / Technicity or discursivity?, in: Camera Austria 59/1997

5. Sekula, Allan: On "Fish Story" / Über "Fish Story", in: Camera Austria 59/1997

6. Sekula, Allan: Walking on water / Auf dem Wasser wandeln, in: Camera Austria 53/1995

7. Sekula, Allan: Sketch for a geography lesson / Entwurf zu einer Geographiestunde, in: Camera Austria 25/1988


■Forget Me Not 1

 セクーラはドイツからのコピー原稿を待つとして、

 バッチェン本を読み直しはじめる。

 ヴァナキュラー写真展のカタログでもある本書は、本サイトでも紹介したヴァナキュラー写真論の具体的な展開にあたる。とりあえずその以前の論文で掲げられた理論的骨格を明らかにしつつ、この本の10の小見出しにしたがいつつヴァナキュラー写真論を紹介することになった。これは以前「もの写真論」シリーズでも展開しておいた。これはもの写真論で6,7回にわたって書きかけた原稿。来年には紹介バージョンと論文バージョンの2バージョンでお届けできる予定。

いやはや今年は何本書くのだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20061209


◇ セクーラ情報追加 - はてなStereo Diary

セクーラ情報をさらにもらう。よく調べてみれば2002年オクトーバー誌102号所収の論文だった。

Allan Sekula, Between the Net and the Deep Blue Sea(Rrethinking the Traffic in Photographs)

写真における交通と対にして訳すべき候補のひとつ。

現在は次の本に所収とのこと。

Archive Cultures

出版社/メーカー: Ediciones Universidad Salamanca
発売日: 2004/04
メディア: ペーパーバック

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20061214


◇ ヴァナフォト論紹介終了 - はてなStereo Diary

■Foregt Me Not 11 記憶の危機とヴァナキュラー写真

 ようやく終了。書きたいし書きゃなきゃならないものを書いているので不満はない。詳細は上と同じく次号のPGの文献紹介で。その一部だけ字句をいじって書いておこう。

 本書の冒頭でバッチェンは、次のような問いを提起している。つまり、写真はそもそも記憶を高めるものであるのか、という問いである。
 たとえば、クラカウアーによるあの有名な写真への批判を思い起こせばわかるように、写真は、19世紀に生じた「記憶の危機」と呼ばれる事態の一因になっていた。近代化にともなう時間や空間の均質化、従来からの伝統や有意義な記憶とのむすびつきの消滅、こうした文脈から見れば写真は、記憶の代替物として交換される安価で画一的な商品であり、ただ記憶の空洞化を推し進めるだけの媒体であった。
 他方で、ヴァナキュラー写真に加えられたさまざまな手作業は、記憶の危機に対する抵抗でもある。主観的な有意義な経験から切り離され、際限なく反復可能であり、遍在的で交換可能で均質な記録、それを意図せぬ自発的な想起を誘発するような本来的な記憶の担い手へと変容させるための作業の成果、それがヴァナキュラー写真。もちろん、そうしたものも所詮、商業的製品にすぎない、近代化の経験にたいして市民階級が最後の砦として立てこもった思い出の品物で埋め尽くされた室内のように、後ろ向きで喪失や不在への嘆きを繰り返すだけのステレオタイプでしかない、そう批判することも可能であろう。ともあれ、いずれの立場を採るにせよ、ヴァナキュラー写真は、記憶の危機の兆候であり、記憶の危機の所産であることは間違いない。
 近代化の作用項であり補償項である写真、こうした写真の二重性が表面化し、収斂する現象、それがヴァナキュラー写真である。しかもそれは、芸術にも産業にも、過去にも現在にも、生活文化にも最新技術にも、被写体という客体にも所有者という主体にも、ましてや複数の主体の構成する共同体にも還元してしまいきれない現前でも不在でもない/ある亡霊的なメディアであった。
 分割線や境界線のうえ、敷居のうえの此岸と彼岸を往き来する写真、ヴァナキュラー写真の経験の核は、本稿で繰り返し明示したように、流動的で不安定な主体の境界、集団と個人の同一性のあいだ、私的なものと公的なものとのあいだ、内と外とのあいだ、写真と他のメディアとのあいだ、諸感覚のあいだ、写真に織り込まれる時間性のあいだの境界、そして生と死の境界線のうえを漂い、境界線を引きなおしつづけていることにあった。ヴァナキュラー写真は、モダニティやモダニズムに関するあまりにも単層的な語りかたをする言説の磁場にも斜線をいれる。そうした作業をうながす写真論、それがヴァナキュラー写真論なのである。

あとはこうてください。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20061230