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スラヴォイ・ジジェク『身体なき器官』(書評)小泉義之 - 立命館大学大学院 先端総合学術研究科 | 背負ったものを賭けるに値する研究のために

 本書での大きな構図はこうである。異教信仰−ユダヤ教キリスト教の三幅対は、歴史的に二度繰り返された。すなわち、スピノザ−カント−ヘーゲルと、ドゥルーズデリダラカンである。これら三幅対において、ドゥルーズは、異教信仰とスピノザに相当するわけだが、本書でジジェクは、実はドゥルーズヘーゲルラカンにも相当すると主張する。

 この主張の賭け金はこうである。近年ドゥルーズは現代哲学の中心的参照点になってきた。政治的にも「反グローバリズムを掲げる現代の左派や資本主義への抵抗の理論的基礎として役立っている」。そして、ジジェクの診断によれば、ドゥルーズのいう「器官なき身体」は「生産の場としての潜勢的なもの」であり、これが自己組織化するマルティテュードと読みかえられ、観念論的主観主義と結びついた左翼急進主義の理論的支柱となってきた。こうした「アングロ・サクソン化」「ガタリ化」されたドゥルーズ、ヤッピー的に読まれた後期資本主義のイデオローグとしてのドゥルーズ浅田彰『構造と力』を想起しておこう)に対して、「もう一人別なるドゥルーズ精神分析ヘーゲルにより近いドゥルーズ、その帰結がより破壊的なドゥルーズ」を際立たせること、これがジジェクの賭け金である。

 別なるドゥルーズとは、とりわけ『意味の論理学』のドゥルーズである。ジジェクの解釈によれば、純粋な出来事=意味の発生器である無意味、言いかえるなら、不毛な場としての潜勢的なものを静的に発生させる準原因や暗き先触れ、これはヘーゲルの否定性やラカンのファルス=身体なき器官に相当するのであって、これが構造化する「影の劇場」こそが、昨今の政治左翼以上に、現実の変革においては決定的に重要なのである。ドゥルーズ自身はそのことに気づいていなかったからこそ、「内的に行き詰まって」ガタリの下へ走ったというわけである。

 以上のドゥルーズ解釈に対してはさまざまな異論が思い浮かぶがそれは措いて、ジジェクの賭け金に対して疑問を一つだけ記しておく。別なるドゥルーズ、言いかえるなら、ヘーゲルラカンの現実破壊性は、ジジェクの卓抜なヘーゲル論である『厄介なる主体』を参照してもそれほど明確ではないし、最近のジジェクの旺盛なパウロ論やレーニン論と整合するとはとても思えない。別に悪いことではないが、ジジェクにしても、二人のジジェクがいるような気がする

週刊読書人』第2562号 2004/11/12

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/s/ky01/041112.htm