Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

原民喜「永遠のみどり」 - 青空文庫 Aozora Bunko

 翌朝、彼が縁側でぼんやり佇んでゐると、畑のなかを、朝餉前の一働きに、肥桶を担いでゆく兄の姿が見かけられた。今、彼のすぐ眼の前の地面に金盞花や矢車草の花が咲き、それから向の麦畑のなかに一本の梨の木が真白に花をつけてゐた。二年前彼がこの家に立寄つた時には麦畑の向の道路がまる見えだつたが、今は黒い木塀がめぐらされてゐる。表通りに小さな縫工場が建つたので、この家も少し奥まつた感じになつた。が、焼ける前の昔の面影を偲ばすものは、嘗て庭だつたところに残つてゐる築山の岩と、麦畑のなかに見える井戸ぐらゐのものだ。彼はあの惨劇の朝の一瞬のことも、自分がゐた場の状況も、記憶のなかではひどくはつきりしてゐた。火の手が見えだして、そこから逃げだすとき、庭の隅に根元から、ぽつくり折れ曲つて青い枝を手洗鉢に突込んでゐた楓の生々しい姿は、あの家の最後のイメージとして彼の目に残つてゐる。それから壊滅後一ヶ月あまりして、はじめてこの辺にやつて来てみると、一めんの燃えがらのなかに、赤く錆びた金庫が突立つてゐて、その脇に木の立札が立つてゐた。これもまだ刻明に目に残つてゐる。それから、彼が東京からはじめてこの新築の家へ訪ねた時も、その頃はまだ人家も疎らで残骸はあちこちに眺められた。その頃からくらべると、今この辺は見違へるほど街らしくなつてゐるのだつた。
 午后、ペンクラブの到着を迎へるため広島駅に行くと、降車口には街の出迎へらしい人々が大勢集つてゐた。が、やがて汽車が着くと、人々はみんな駅長室の方へ行きだした。彼も人々について、そちら側へ廻つた。大勢の人々のなかからMの顔はすぐ目についた。そこには、彼の顔見知りの作家も二三ゐた。やがて、この一行に加はつて彼も市内見物のバスに乗つたのである。……バスは比治山の上で停まり、そこから市内は一目に見渡せた。すぐ叢のなかを雑嚢をかけた浮浪児がごぞごそしてゐる。それが彼の目には異様におもへた。それからバスは瓦斯会社の前で停まつた。大きなガスタンクの黝んだ面に、原爆の光線の跡が一つの白い梯子の影となつて残つてゐる。このガスタンクも彼には子供の頃から見馴れてゐたものなのだ。……バスは御幸橋を渡り、日赤病院に到着した。原爆患者第一号の姿は、背の火傷の跡の光沢や、左手の爪が赤く凝結してゐるのが標本か何かのやうであつた。……市役所・国秦寺・大阪銀行広島城跡を見物して、バスは産業奨励館の側に停まつた。子供の時、この洋式の建物がはじめて街に現れた時、彼は父に連れられて、その階段を上つたのだが、あの円い屋根は彼の家の二階からも眺めることが出来、子供心に何かふくらみを与へてくれたものだ。今、鉄筋の残骸を見上げ、その円屋根のあたりに目を注ぐと、春のやはらかい夕ぐれの陽ざしが虚しく流れてゐる。雀がしきりに飛びまはつてゐるのは、あのなかに巣を作つてゐるのだらう。……時は流れた。今はもう、この街もいきなり見る人の眼に戦慄を呼ぶものはなくなつた。そして、和やかな微風や、街をめぐる遠くの山脈が、静かに何かを祈りつづけてゐるやうだ。バスが橋を渡つて、己斐の国道の方に出ると、静かな日没前のアスフアルトの上を、よたよたと虚脱の足どりで歩いて行く、ふわふわに脹れ上つた黒い幻の群が、ふと眼に見えてくるやうだつた。

底本:「日本の原爆文学1」ほるぷ出版
   1983(昭和58)年8月1日初版第一刷発行
初出:「三田文学
   1951(昭和26)年6月号
※連作「原爆以後」の9作目。
入力:ジェラスガイ
校正:大野晋
2002年9月20日作成

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