私が小学校二年生の頃、父親と二歳上の兄と三人で巣鴨のお地蔵様に行ってお土産に蝉凧と野球帽を買って貰った記憶があり、それが初めて玉電に乗ったときである。当時私の家は小作人の貧しい農家で周りも農家が多く、このあたりの人達は玉電に乗るのはもったいないから歩けと言っていた。
終戦後マッカーサーの農地改革によって耕した分だけ田畑をもらうことができたので、毎日朝日が昇る東に向かって「マッカーサー元帥様有り難うございます」と拝んでから朝食を頂いていた。
中学二年生になったばかりの春から私のシルクロード「とん・フーズ・ロード」(豚・食べ物の道)が始まった。我が家にとって農産物よりも家畜の仕事が良かったのか、いつも十五、六頭の豚がいた。その豚の餌を運んでくるのが私の仕事で、ごつい自転車でリヤカーを牽引し二斗入りの肥樽を3樽積んで走った。
玉川通りを一路弦巻へ。叔母の製麺所でうどんの茹で汁と、従姉妹の蕎麦屋で残飯をいっぱい詰め込んで帰った。往きは空樽だが坂があるので楽ではないのに、帰りは重くて少年だった私にはとてもきつかった。
そんなある日、蕎麦屋の北西の奥に謎めいた大きな円筒形の不思議な建物が目に入った。これは一体何だ?と思ったが近くまで行く事はなかった。(のちに駒沢給水塔と知る)