Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

Foucault, Michel『監獄の誕生――監視と処罰』 - Arsvi.com

第三部 規律・訓練 (Discipline / Discipline)
第1章 従順な身体 (Les corps dociles / Docile bodies)
配分の技術 (L'art des répartitions / The art of distributions)
活動の取締り (Le contrôle de l'activité / The control of activity)
段階的形成の編成 (L'organisation des genèses / The organization of geneses)
さまざまの力の組立 (La composition des forces / The composition of forces)

http://www.arsvi.com/b1900/7500fm.htm


ミシェル・フーコー『監獄の誕生──監視と処罰』 - 立命館大学大学院 先端総合学術研究科
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1970/7500fm.htm


立岩真也「FOUCAULTの場所へ――『監視と処罰:監獄の誕生』を読む」
http://www.arsvi.com/ts/1987a02.htm


ミシェル・フーコー - Wikipedia

『監獄の誕生―監視と処罰』は1975年に出版された。近代以前における刑罰は、権力者の威光を示すために犯罪者の肉体に対して与えられるもの(公開の場で行われる四裂き刑、烙印、鞭打ちなど)であったが、近代以降の刑罰は犯罪者を「監獄」に収容し精神を矯正させるものとなった。これは人間性を尊重した近代合理主義の成果と一般に思われているが、フーコーはこうした見方に疑問を呈する。監獄に入れられた人間は常に権力者のまなざしにより監視され、従順な身体であることを強要されている。功利主義者として知られるベンサムが最小限の監視費用で犯罪者の更生を実現するための装置として考案したのが、パノプティコン(一望監視施設)と呼ばれる刑務所である。さらに近代が生み出した軍隊、監獄、学校、工場、病院は、規則を内面化した従順な身体を造り出す装置として同一の原理に基づいていることを指摘した。本書は監獄の状況を調査し、その状況の改善を要求するフーコーの実践活動(監獄情報グループ)とも結びついていた。
本書は、社会が個人の肉体を訓練することによってその個人を規律化する方法を論じている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%BC


◇ 1章 文明と身体 - 京都産業大学

身体変化と文明
~身体の変化から見る近代化とその先に見えてくるもの~

京都産業大学文化学部国際文化学科 溝口雄一朗

http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/mizoguchi%2805-1-22%29


◇ 医学と刑罰 ( その他人文科学 ) - 錯乱気流 - Yahoo!ブログ

「監獄の誕生」は、1757年3月2日パリにおいて、ある人物が「王殺し」の廉で、公開処刑されるシーンから始まる。その模様は、肉を焼き鏝で引きちぎられ、内臓を引き摺りだされ、四肢を断裂され、最後は、焼き殺されるという、文字通り凄惨なものである。そこから、断頭台のスペクタクルへと話は移行し、時代が下るにつれ、刑罰が公開の場から姿を消し、密室化してゆく過程を描くのだが、その途上で、有名な「従順な身体(docile body)」と「中央監房装置(パノプティコン)」の議論が登場する。結論から言うならば、フーコーは、近代市民社会において、処刑が「『視覚的』残虐性」を減じ、公的空間から消滅してゆくのは、一般に信じられているような「人道的配慮」とは無縁の現象であると説く。即ち、前近代の欧州において、刑罰の重点は「王権の誇示」と「霊魂の不滅」の強調にあった。前者は言わずもがなだが、後者は肉体を破壊する行為が、「魂の永遠性」を逆説的に象徴するのである。それは、魔女狩りにおける焚刑も同様である。しかしながら、近代市民社会における刑罰は「権力の誇示」から、「監視」「矯正」へと、その目的を変化させるのである。これは、彼の権力理論と合せて考えると、より理解しやすい。


フーコーによれば、近代市民社会において権力とは、前近代社会における支配者と被支配者の関係のように、垂直に作用するものではなく、社会の構成員の間に偏在して作用するものである。即ち、現代における人間関係は、その根本において権力関係であり、そこには、ある種の相互監視体制が成立している。近代市民社会においては、「見られる」という「まなざしが」常に作用しており、その「まなざし」を常に意識せざるを得ないが故に、近代人の身体はシステムに拘束される「従順」なものに変容する。つまり、近代人は、そのような相互監視システムの中において、道徳的な主体としての自らを意識し、お互いを監視する。フーコーは、これをさらに敷衍し、学校、病院、刑務所の同質性を論じるのである。キーワードは、当然「監視」と「矯正」である。事実、刑罰と医学の関係を論じずに、近代社会の刑罰を語ることは出来ないし、映画やドキュメンタリーでお馴染みとは思うが、アウシュビッツやビルケナウなど、ナチスの収容所には、入り口の部分に、収容所全体を見渡せる監視塔が存在している。

http://blogs.yahoo.co.jp/ochikoboremaru/42776652.html