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福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

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山口洋三(福岡市美術館)2014年11月15日号

ヨコハマトリエンナーレ2014:さまざまな「忘却」/裏テーマとしての「だめ」
Y──都市化が進むにつれ忘れられる記憶。つまり「忘却」、ということで、「ヨコハマトリエンナーレ2014」のテーマにつながる。
 総合ディレクターの森村泰昌は、テーマとなる「忘却」に幾通りかの意味を重ねているね。忘れてしまったこと、忘れられたものへのまなざし、忘れることの怖さに忘れることの大事さ……。でも一番共感したのは、「だめ」感。僕がヨコトリを観覧したのが10月11日。その日の夕方の、森村×都築響一対談(司会:やなぎみわ)での発言で、この「だめ」が裏テーマだったと明かされた。これは10月10日発行の図録にも書いてあるよ。

y──「すっかりだめな僕たち展」ってなんか聞いたことあるような?

Y──1971年11月に京都市美術館・京都書院で開催されたグループ展。なんか情けない名前だけど、「すっかりだめ」っていうあたり、学生運動が沈降して陰鬱な気分に満たされていた当時の若者の時代感覚を反映しているそうで。「福岡現代美術クロニクル1970-2000」を企画したときに痛感したけど、1970年代は現代美術の闇の時代だ。出品作家を見たら、植松奎二、野村仁に狗巻賢二に郭徳俊に水上旬……。

y──この展覧会名称を聞いたことあるようなないようなと思ったのは、その作家たちの略歴をどこかで見たからかな。たぶん「1970年──物質と知覚」の図録(1995)。いまこの図録見たら年譜にちゃんと「すっかり〜」のポスター画像が引用されてました!

Y──「だめ」感は、かいつまんで言えば、時代精神と作家個人の思いのズレ。そこから生まれる批評精神がおよぼす感動のこと。というと立派だけど、ようするに、わけのわからない作家の行ないに、「なにをこんなアホなことを……」とわれわれに心底思わせること。

y──福岡道雄の《何もすることがない》って、ローマン・オパルカの強烈なパロディですね……。あと、やなぎみわに、大竹伸朗に、松澤宥……も、かな?

Y──「なにもすることがない」って延々彫りこめるか? 台湾で舞台トレーラーつくるって一体いくらかかったの? 廃品や写真の塊からどうして蒸気が噴き出す? プサイの部屋って意味不明……って「ようやるわ」では済まされない! 「だめ」の批評精神は「忘却」というテーマとも通じているけど、たとえば「第4話:たった独りで世界と格闘する重労働」や「第6話:おそるべき子供たちの独り芝居」のように、芸術家の孤独で、世間に背を向けるあり方もここで提示しているね。社会に向けて有用なメッセージを発する作品とコーナーがある一方で、なんのメッセージもなく、ただ「アホなことしている」「だめな」作家たちがいる。むしろこういう作家にこそ、人間の、そして芸術の根源があるのでは、ということかな。そして森村自身がむしろ芸術家のそういうあり方に強い共感を示している。「忘却」に抵抗するメッセージを発する姿勢も大事だけど、それだけだと時代の波に巻き込まれる恐れもあるからね。

y──美術作家はいかに自らの生きる時代に向き合うべきか、そして背を向けるべきか、その両方を問いかけているようですね。

http://artscape.jp/report/curator/10105050_1634.html