Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

journal — エリー・デューリング「プロセスから操作へ」

2015.05.15
エリー・デューリング「プロセスから操作へ」
デューリングによる、プロトタイプ論に至るまでの論点整理といった趣の論考。現代の芸術の試みを、表象から脱して行為や操作を提示することにあるとしたうえで、芸術における操作とはなにかを問うことがおもな目的となる。

最初に批判の対象となるのは、操作そのものに本質的な意味が存在するという考え方だ。たとえばサンプリングという操作は、絶え間ない再生産の流れのうちにまるでひとつのコマのように受動的に存在する芸術家像と、素材を自由自在に操って新たな作品を生み出す能動的な芸術家像というふたつの相反する解釈を生み出す。これは一見矛盾のようだが、操作を本質論的に捉えようとするから起こる誤謬でしかない。操作とは、「何であるか」では問うことができず、ただ「どのようにあるか」としか問えないものなのだ。

次いで、モノとしての作品を脱物質化し、操作によって代替しようとする現代の芸術の限界を論じる。一方には、操作がもたらす効果そのものを提示しようとするプロセス・アート(プロセス的な体制)があり、他方には、操作そのものが作品に優先するコンセプチュアル・アート(パフォーマティヴな体制)が存在する。しかしながら、ふたつの体制はどちらも言語にあまりにも密接に結びついているがゆえに、実際のところ、脱物質化の試みが目指す表象からの離反を達成することができない。

したがって、本当に表象から逃れようと考えるならば、プロセス的体制からもパフォーマティヴな体制からも逃れ、操作そのものを思考しなければならない。「つくられた動向にできあいの解釈…ですがるのではなく、私たちは、…操作についての問いを明らかに提起している、そうした芸術家をたよりにすることになるだろう。」と述べデューリングが挙げるのは次のような芸術家たちである。ジル・ウォルマン、ソル・ルウィット、ゴードン・マッタ=クラーク、そしてパナマレンコ。結びとして用いられているパナマレンコの言葉は、デューリングがプロトタイプ論においても引用しているもので、この操作の思考の延長線上にプロトタイプ論が存在することは明らかである。

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