Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

大ヒット映画に対する出鱈目な批評の横行に文句が言いたい! - MIYADAI.com Blog

「類稀なる自己制御こそ他者による制御の産物なのではないか」という映画『ボーン・アルティメイタム』の主題に、ポストモダン特有の再帰性の刻印を見出す



■当たり前だが、映画と演劇の別を問わず、芝居の享受には凡そ目に見えない前提が張り付いている。以前、平田オリザのワークショップに即してそのことをこの連載でも書いた。芝居の享受とは「見立て」だ。それを可能にするのは、知的・身体的・感情的な共通前提なのだ。
■キャッチボールの集団パントマイムより長縄飛びの集団パントマイムが容易だ。理由は、長縄飛びのほうが、小学校の標準カリキュラムに組み込まれていることもあって、キャッチボールよりも相互に身体的な共通前提を当てにできることがあるからだ。が、それだけではない。
■長縄飛びには「失敗して周囲に迷惑をかけるんじゃないかと緊張した」とか「失敗して笑われたのが恥ずかしかった」といった感情的経験が付き物だ。だから、単なる身体的パントマイムを越えて、感情的パントマイムが可能になる。それがリアルなパントマイムを可能にする。
■加えて、当然のことだが、芝居の演技を「見立て」るには知的な共通前提も必要となる。我々が「砂漠」や「携帯電話」について一切の知識を持たなければ、「男が砂漠に佇んで携帯電話をかける」というシーンは、演出家が意図するどんな感慨をも引き起こせないだろう。
■こうした個別のカテゴリゼーションに関わる共通前提だけではない。我々は各人各様に〈世界〉を知る。だからこそ「砕け散った瓦礫に一瞬の星座を見出す」かのように(ベンヤミン)、「ああ、確かに〈世界〉はそうなっている」と寓話的に享受することが可能になる。
■我々が〈世界〉を知る仕方は〈社会〉によって異なる。だから、米国人が米国映画から汲み取れる寓意を、同じ映画を観た日本人が享受できないということがあり得る。そうした典型例を、ポール・グリーングラス監督『ボーン・アルティメイタム』(07)に見出せるだろう。

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