ルノアール新橋汐留口前店にて
インタヴュアー:河合大介、渡辺くらら、宮田有香
書き起こし:渡辺くらら
公開日:2014年12月31日
和泉達(いずみ・たつ 1940〜)
美術家
ハイレッド・センターの4人目の正式メンバー。京都に生まれ、戦時中、島根に疎開。60年、東京芸術大学美術学部彫刻科に入学。3年次に裸婦像の課題でコッペパンを制作したが認められず、それを機に退学。63年7月に初個展、同年10月に第二回個展を内科画廊で開き、鑑賞者に自発的行為を促す独特な展示を行う。この個展をきっかけにハイレッド・センターに誘われ、その後メンバーとして活動。70年代以降はテレビコマーシャルの制作ディレクターとして活躍し、その後は、制作の対極に位置するマネ―ジメント業に徹した。1回目のインタヴューでは、幼少期から大学進学まで、2回目は、大学時代からハイレッド・センターでの活動を中心にお話しいただいた。2013-14年に開催された『ハイレッド・センター:「直接行動」の軌跡』展後に行われたこのインタヴューは、同展覧会図録を参照しながら読んでいただきたい。インタヴュアーは、東京文化財研究所で日本の現代美術について調査・研究を行っている河合大介、論文「赤瀬川原平の『反芸術』」で大学を卒業したばかりの渡辺くらら、当アーカイヴ・メンバーの宮田有香が務めた。
http://www.oralarthistory.org/archives/izumi_toru/interview_01.php
◇ ハイレッド・センター:「直接行動」の軌跡 | 取材レポート | 美術館・博物館・展覧会【インターネットミュージアム】
http://www.museum.or.jp/modules/topics/?action=view&id=423
◇ ハイレッド・センター | 現代美術用語辞典ver.2.0
ハイレッド・センター
Hi Red Center
1963年、雑誌『形象』の座談会に同席したことを機に高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之が結成した匿名集団。メンバーは3人に限らず、また結成前に高松と中西らが行なったイヴェント「山手線事件」も活動に含まれる。60年代前半の反芸術の潮流の内にありながらこのグループが一線を画すのは、反芸術のような即興的な感情の発露によらずあくまで冷静に練られた計画に基づいて活動を実行した点である。構成員の頭文字の英訳を並べたグループ名の法人ふうの響きがまさに示している通り、公共性を装いながら社会に介入し、社会における芸術の有り様、あるいはその逆を観察、検証することを芸術活動とした。最初のグループ展「第5次ミキサー計画」に集合した紐(高松)、千円札(赤瀬川)、洗濯バサミ(中西)のオブジェに見られる増殖性に既にその介入的特徴は認められるが、個人用のシェルター受注、街頭ビラの配布など疑似公共的イヴェントによる介入行為をさらに洗練させ、64年に銀座街頭で白衣をまとって無用の清掃を行なう「首都圏清掃整理促進運動」で活動を終える。久保田成子やナム・ジュン・パイクの紹介によってフルクサスとも共鳴し、交流を行なった。グループの活動時期に併行して巻き起こった千円札裁判も、公共圏に侵入する「直接行動」が招いた必然的結果であった(このグループの重要性が認識された背景には、千円札裁判の果たした役割が大きい)といえる。先駆性、影響力ともに戦後日本の現代美術において最重要のグループ。
著者: 成相肇
参考文献
『東京ミキサー計画—ハイレッド・センター直接行動の記録』,赤瀬川原平,筑摩書房,1994
『美術手帖』1971年8月号付録,「特報 ハイレッドセンターの全貌」,和泉達,1971
「ハイレッド・センター:『直接行動』の軌跡」展カタログ,「ハイレッド・センター」展実行委員会,2013
◇ シェルタープラン
シェルタープラン
1964._._
18分 白黒 サイレント 16mm
監督 ................ 城之内元晴
撮影 ................ 城之内元晴
出演 ................ 高松次郎 赤瀬川原平 和泉達 オノ・ヨーコ 横尾忠則 ナム・ジュン・パイク 刀根康尚 風倉匠 足立正生