Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

Oral History vol.1 椿昇 Radikal Monologue(Kenji Kubota Art Office)

Kenji Kubota Art Office is pleased to present "Tsubaki Noboru" , which is from a series called "Oral History", a film archive of testimonies from Japanese artist and his/her related circles.
This also is a very first documentary film for Noboru Tsubaki, whose known for the gigantic grasshopper of 50m ("The Insect World/Locust") inside Yokohama Grand Intercontinental Hotel during Yokohama Triennale 2001, was a huge topic.
Keeping a certain distance from Art Market and Art Systems, Noboru Tsubaki has been searching a "radical dialogue" within the society. What does "world", "human" and "art" mean for a person like Noboru Tsubaki who is widely recognized as a talented artist as well as an able and charming professor? With a varied interest, complete research and full of creativity, what is the consistent theme? Through the interview of Tsubaki Noboru and his related circles, a part of his complex world will be revealed.

http://officekubota.com/interview.html

内容紹介
国内アーティスト、アート関係者の証言を映像としてアーカイブ化していく「オーラル・ヒストリー」シリーズ第一弾、「椿昇 Radikal Monologue」。「横浜トリエンナーレ2001」においてインターコンチネンタルホテルに全長50mの巨大バッタ『インセクトワールド−飛蝗』を設置し、大きな話題を呼んだアーティスト椿昇の初ドキュメンタリー映像。 アートマーケットやシステムから一定の距離を取り続けながら、社会との「ラディカル・ダイアログ」(根源的な対話)を模索する椿昇。稀有な才能を持つアーティストであり、誰もが認める有能で魅力に溢れた教育者、椿が語る「世界」「人間」「アート」とは何か?あらゆる事象に興味を持ち、徹底的なリサーチと想像力によって生まれる多岐にわたる作品群に一貫した世界観とは何か?展覧会や文献では知ることの出来ないアーティストの複雑に入り組んだ思考回路の一端が、本人へのロングインタビューと関係者への取材によって明らかになる。 混迷する世界状況の中で創造的(クリエイティブ)であることの意義と重要性が見えてくる必見のDVD!

出演者について
椿昇(アーティスト) 逢坂恵理子(横浜美術館館長/2009年4月より)、河本信治(京都国立近代美術館学芸課長)、ドミニク・チェン(メディア・アクティビスト)、南條史生(森美術館館長)、宮島達男(アーティスト、東北芸術工科大学副学長)、室井尚(哲学者、横浜国立大学教授)、森司(水戸芸術館現代美術センター主任学芸員) 特別出演/飯田高誉(京都造形芸術大学国際研究センター所長)、小崎哲哉(ART iT!編集長)

http://www.amazon.co.jp/dp/B001UJGPWC


YouTube - 椿昇 Radikal Monologue 予告編 (Oral History series vol.1)
http://www.youtube.com/watch?v=pcmmYNDSdrw


椿昇 後藤繁雄『アートを始めるまえにやっておくべきこと (アート新書アルテ03)』(光村推古書院)
http://www.amazon.co.jp/dp/4838180020


椿昇 2004–2009: GOLD/WHITE/BLACK - 京都国立近代美術館
http://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionArchive/2008/371.html


椿昇「GOLD/WHITE/BLACK」展 - I Get Around The Media 楠見清のメディア回游
http://d.hatena.ne.jp/donburaco/20090307/p1


椿昇さんへのインタビュー - 横浜シティアートネットワーク-YCAN-
http://www.ycan.jp/archives/2005/05/post_25.html


椿昇・IMIメディアラボ - Culture Power
http://apm.musabi.ac.jp/imsc/cp/menu/artist/tsubaki_noboru/intro.html


◇ 椿 昇:アーティスト【スペシャルインタビュー/トロントWebタウン情報誌 bitslounge】
http://www.bitslounge.com/a00_interview/2006/0721_tsub.html


椿昇現代美術家)× 岡田勉(スパイラルチーフキュレーター) - Spiral Bank
http://www.spiral.co.jp/sbank/special_talk/special_talk04-1.html


Tsubaki Noboru 椿昇 | Official Web
http://unboy.org/

出版関連メモ

◇ 本の仕事と、仕事についての本を1冊にすると未来が見えてくる - I Get Around The Media 楠見清のメディア回游

書物に替わるメディアの台頭によって、本や雑誌が知識を蓄え運ぶメインの記録媒体から、ユーザーが選択可能なオルタナティブ・メディアに成り下がってしまったことに対して、ぼくはむしろ新たな期待を寄せている。仮にいつの日か書物の形をしたフィジカル・リリース(パッケージ・プロダクトによる市場投下)がなくなり、「新刊」と呼ばれるもののほとんどすべてがディジタル・リリース(データのダウンロード配信)となったとしても、これからの古書は古着のようにリユースされ、古レコードのようにリミックスされうる素材として、もうひとつの別の市場を形成していくだろう。と、ここまでは実は雑誌にも書いたことだ。

書物のマス文化が終わり、小さな本の文化が始まる

加えて、ぼくがこのところずっと考えているのは、大手出版社がフィジカルからディジタルへとビジネス転換していく一方で、書物の制作や出版は趣味性の高い表現行為としてインディーズ化していくに違いないということ。先月開催されたZINE’S MATEの会場で体感した熱気はまさにその前兆といえる──そう、その混沌とした表現意欲の渦は、まだ「コミケット」が巨大イベントと化す前夜の1980年代に全国各地で開催され始めたマンガ同人誌即売会や、1990年代前半にApple Macintoshを手にした若手デザイナーやその卵たちによる自主制作のデザイン系フロッピーマガジンの展示即売会フロッケ展を思わせるものだった。2000年前後に広まったカフェ文化や2000年代後半のクラフト系手製本ブームにも相乗して、自分の作りたい本を自分でつくって売るという書物を媒体としたDiY文化が、今まさにネット文化の拡張とともに進展しつつある。

http://d.hatena.ne.jp/donburaco/20090813/p1


◇ 「購書空間」の再生に向けて〜柴野京子『書棚と平台』を読む。 - 【海難記】 Wrecked on the Sea

どういうことか。現在における「購書空間」の両極として、アマゾンとブックオフを置いてみるとよく分かる。ひとことで言えば、前者はリテラシーの高い人たちのための「購書空間」である。対して後者は、どちらかといえばリテラシーの低い人たちに向けられている。これはたんにデジタル・デバイド(格差)の問題ではない、と柴野さんは言う。またそれは、たんに「読者」としてのリテラシーでもない。いわば、以前私がここでも書いたことのある、「本の買い方のリテラシー」*5における格差なのだ。

http://d.hatena.ne.jp/solar/20080605

いま、書店の危機として語られている事態は、極端にいえば、既存の書店が「アマゾン」と「ブックオフ」によって両側から挟撃され、同時にその両極へと――つまりジュンク堂のような「データベース型書店」と、ブックオフの読者と親和性の高い「ベストセラー・量販志向の書店」へと――分解しようとしている過程といっていい。では、そのことで失われてしまうのはなにか。それは「書店」という「購書空間=メディア」のなかに、なかば偶然もふくめた歴史的な経緯をへて多層的に織り込まれてきた、さまざまな「過去」が失われることだ、というのが私がこの本を読んで得た理解である。

もう書店なんていらない、アマゾンだけあればいいよ、などと、つい業界人はうそぶいてしまう。実際、「プロの読者」にとっては、書店はジュンク堂紀伊國屋、アマゾンさえあれば充分だろう。でも「書店」という「購書空間=メディア」が担ってきた公共性は、そのようなリテラシーの高い「プロの読者」に向けられたものばかりではない。むしろその逆だったのではないか。

http://d.hatena.ne.jp/solar/20090812#p1

飯沢耕太郎『戦後民主主義と少女漫画』関連

◇ 微妙な飯沢耕太郎の少女漫画論(7/25:一部改稿&加筆) - 9月11日に生まれて

 著者らしいのは岡崎京子の後にガーリー・フォトが配置されるところだ。

 ただ戦後民主主義という男性原理と、少女漫画に現れた「純粋少女」を対置させるあたりに飯沢の限界が見える。

 著者本人も男性原理や女性原理という「紋切り型」の、「バイアスのかかった言葉」を使うことに抵抗を示しているものの、結局は、

 七〇年代以降の十数年というのは、シャーマンとしての少女による少女漫画、つまり「少女の少女による少女のための純粋少女漫画」が、時代の見えない“風”に押し上げられてはじめて出現した時代です。(p.20)

 みたいな物言いになってしまう。

 浪漫主義的というか神秘学的というか、言いたいことはわかるんだけど、気持が悪い。

 少女漫画というオルタナティブな回路を「純粋少女」などという、感覚的でジェンダー二元論的な「言葉」に回収してしまっていいのか?

 それは、かつて「少女」のイコンとイデアを特権化し、物神として消費してきた「男性原理」とどう違うというのだろうか?

 飯沢は「男性原理」で掬い取れないものに「純粋少女」という名前を与えてカテゴライズすること自体が「男性原理」の発動であることを自覚していない。

「純粋少女」などという陳腐な名称を与えられた瞬間、そのわけのわからないオルタナティブな諸々は「自分が男(女)性だと思い込んでいる人々」にとって「わかったようなこと」にされ、腐り果てていく。

 オレは70年代少女漫画は、制度的・商業的な「少女向け」というセグメントを超えた、つまり回路が外界に向かって開かれたことが、一種の革命だと思っている。

「少女のための漫画」から「少女も読む漫画」へのパラダイムシフトと言い換えでもいい。

http://d.hatena.ne.jp/pecorin911/20090724/1248458030
漫画評論家永山薫さんのはてなダイアリーより。


飯沢耕太郎が漫画論? - Yahoo!掲示
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=1835004&tid=3abbaea47a4fa4dba47a4a4e8mw2qa1j20c0a45aaa0hbejsa1k&sid=1835004&mid=841


◇ おじさんだって少女である - 児童文学と音楽の散歩道

溜飲を下げたのは、「純粋少女性」という概念を、女性だけのものとして語っていないこと。
「おじさんだって少女である」
「少女漫画が戦う場所は、じつはわれわれの現実世界と幻想世界のすべての領域なのだ」そして、筆者は悲しげに付け加える…大島弓子は撤退してしまったけれど、と。

大島の近作『グーグーだって猫である』…これは、撤退してしまった作品なのか。筆者はそのように述べている。
しかし、そうなのか。私は、この作品の中で、非常に深く、強い印象を残す場面をひとつ見つけている。この一点で、私は「撤退」に異議を唱えるひとりなのだが…

http://blogs.yahoo.co.jp/izumibun/27957470.html
ブログの筆者は男性。


◇ 純粋少年性理論 - ぴっぽのしっぽ

氏のトーク
この本のタイトル、はじめは、少女漫画メインの内容で「おじさんだって、少女である!」だった、という話がおかしい。笑

飯沢氏、この本をかくにあたり、名作と言われる、少女漫画をかたはしから読んで、いちいち胸キュンした、と。
体はおじさんだけど、心は完全に「少女」らしい。

そのあと、少女漫画家のそれぞれの作品(簡単にストーリー紹介も)をとおし、うったえたいメッセージなど。
また、過去の少女漫画を踏襲し発展していった、あらたな少女漫画作品の登場のことなども。

http://blog.livedoor.jp/pipponpippon/archives/51181106.html
ブログの筆者は女性。


飯沢耕太郎戦後民主主義と少女漫画』(PHP新書

一九七〇年代から現在に至るまで、巨大な潮流をつくってきた少女漫画の歴史を、<純粋少女>をキーワードに読み解く。
とくに“二十四年組”を中心に花開いた<少女漫画>の魅力とその高度な達成について――
大島弓子の『バナナブレッドのプディング』、萩尾望都の『トーマの心臓』、
そして岡崎京子の『ヘルタースケルター』を主な手がかりに――戦後文化論として読み解く。
少女漫画のヒロインたちが抱える繊細な“怯え”は、大人の論理が強要する
安易な成熟の拒否であり、無意識の抵抗だったのではないか。
今日に至るまで連綿と受け継がれてきた“震え”や“怯え”の伝達装置としての<純粋少女>たちに、高度消費社会の諸矛盾を、戦後民主主義の限界を乗りこえる
可能性をみる。巻末に「少女漫画の名作一覧」を収録。

http://www.amazon.co.jp/dp/4569705146
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/AAT76226/
「序章 七〇年代少女漫画前史-戦後民主主義と成熟の拒否」と
「終章 純粋少女と少女漫画のいま」のみ、ざざっと立ち読み。
大塚英志さんの少女(漫画)論や
友人の薦めなどがきっかけとなって、
この本を書いたという話です。

      • -


◇ 1つ下の業績リストについて - MIYADAI.com Blog

・(飯沢耕太郎、唐澤俊一)「少女幻想批判序説--少女・十三歳」(『早稲田文学』1997年7月号)

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=556
飯沢耕太郎さんが参加した鼎談。


◇ 目次紹介 - 宮台真司 dialogues×blog

飯沢耕太郎、唐澤俊一 少女幻想批判序説 ●少女・十三歳(早稲田文学)P237

http://d.hatena.ne.jp/miyadialogues/20061209/p1
宮台真司ダイアローグスI』(http://www.amazon.co.jp/dp/490314500X)に収録されているようです。


◇ Shinji Miyadai : What's New on Miyadai and Home Pages. - 宮台真司とその思想

だいぶ前に聞いてたのにうっかり書き忘れてたのですが、『早稲田文学』 1997 年 7 月号 に宮台が「少女幻想批判序説」というのを書いているそうです。内容は飯沢耕太郎と唐澤俊一との鼎談とのこと。早稲田大学出版部へ問い合わせれば入手できるそうです。
(thanx!! > Takeda さん、匿名さん)

http://www.asahi-net.or.jp/~IX7R-NNB/Horobi/Miyadai/new-1.html


◇ ARTIFACT ―人工事実― : シングルCDを購入する人たち

コミュニケーション・ツールとしてのプリクラ〜使い捨てカメラ〜ヒロミックス〜アウフォト、みたいな流れについては、宮台真司×唐沢俊一×飯島耕太郎の鼎談がありました。神戸須磨のあの事件を扱った本に載っていたはず(「透明な存在の不透明な悪意」だったか)。
もっとも、コミュニケーション・ツールとしてのJポップは、もうすっかりケータイに食われ終わっているような気がするんですが、どうでしょう?

http://artifact-jp.com/mt/archives/200312/singlecd.html


宮台真司 透明な存在の不透明な悪意  - Yahoo!オークション

対談者:香山リカ島田雅彦山崎哲、吉岡忍、内田良子、芹沢俊介鈴木光司飯沢耕太郎唐沢俊一

http://page8.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/h128437990
※春秋社(1997/11)→http://www.amazon.co.jp/dp/4393331753


笙野頼子「だいにっほん、おんたこめいわく史」 - 「壁の中」から

ところで、ここ最近私は「Gunslinger Girl」を「倫理的」に批判し続けてきたが(参照)、そこで私が見いだしていた問題と、今作で笙野が批判している問題は、たぶんかなり近いものではないかと思う。それはごく単純化すれば、「少女を利用した男たちの自己正当化によって、少女自身が抑圧される構図」だ。そういった傾向が最近のオタク的表現にあるように私は考えていて、「ガンスリ」はそのもっとも典型的な具体例として批判していた。

オタク表現、というか「美少女」にまつわる倫理的な問題を扱った本にササキバラ・ゴウの「<美少女>の現代史」がある。この本では男が美少女を性的に見ることについての問題を扱っていて、わりと踏み込みが浅いものの、私と問題意識の持ち方が共通している面もあり、興味深い本だ。この本の終章、現代の美少女について語っている部分で、ササキバラはこう書く。

まず第一に、視線を受けとめる相手として、決して傷つくことのない「キャラクター」がますます求められているということ。人間ではなくキャラクターが相手なら、男性は安心して自分の視線をさまよわせ、そこに秘められた暴力性を解放し、思う存分「見る」ことができます。美少女を表現した多くのまんが、アニメ、ゲーム、フィギュア、小説などは、そのような欲望を受けとめてくれるものとして、消費されつづけています。そこでは、私は安心して「純粋に視線としての私」になれるのです。
 第二には、かつての「特権的な僕」の座を回復しようとして、「彼女の内面」をフィクションとして作り上げ、既に消えてしまった旧時代の少女まんがを男の手で再建しようとすることです。七〇〜八〇年代のロマコメやラブコメ少女まんがの表現が、そのまま移植されたかのような作品が、九〇年代以降の男性向け作品には目立ちます。
 このふたつの欲求が、矛盾することなく同居するさまは、特に九〇年代後半以降のギャルゲーにわかりやすく表われています。そこでは、エロまんが的な凌辱する視線と、きわめて内面的で叙情的なテキストが、軋轢を起こさずに同居しながら表現されています。
講談社現代新書「<美少女>の現代史」181-182P

ササキバラのいう「特権的な僕」とは、少女漫画で表現されていた女性の内面描写を通して、女性の理想像としての「本当の自分をわかってくれる彼」になろうとした男たちのことで、少女漫画での内面表現が大幅に後退してしまってから、その座を奪われてしまったという)

視線の対象物として消費しつつ、自分は彼女たちをわかってあげられるというほとんど矛盾するような二面性を象徴するものとして、「美少女」が求められている、と言うのだ。

笙野が大塚に見いだしていた言説のあり方は、上記引用とも通底するもののように思われる。論争では笙野は何度も大塚をロリ・フェミと呼んでいるが、それは以下のような言説を指す。
ロリ・フェミとは文壇の女性差別体質に上手に付け込んで実力以上のランクをこの世界で手に入れ、その上文学や女性に対してたかをくくり現実感を喪失しているあさはかな状態の、自称少女代弁者を評した言葉なのです。ロリ・フェミは少女のイメージのユーザーにして少女のスポークスマン、少女の抑圧者、そして男性評論家は大人の女作家の仕切り屋をもかねた黙殺者である、そりゃ意気投合ですよ。
「徹底抗戦! 文士の森」122P

http://inthewall.blogtribe.org/entry-3ba161935c1cb0b8a5e44c8185e3b1e8.html
kingさん(id:CloseToTheWall)の旧ブログより。

マエストロ鏡玉「私写真論批判序説」 - [本]のメルマガバックナンバー


◇ 2001.1.5.発行 vol.56 [その先に何かが 号] - メールマガジン[本]のメルマガ

 さてここで批判されるべき「私写真論」として念頭においたのは、写真
評論家・飯沢耕太郎氏の『私写真論』(筑摩書房)における「私写真」で
した。その前に、本書はどのような内容なのかを簡単に要約します。
 飯沢氏は巷にあふれる「私写真」ということばの濫用を憂いて、「私写
真」をしっかり定義しなければならないと言いつつ、きっちりはしたくな
といいます。? ですが、なぜなら「特定の、限定された解釈の幅の中に
押し込めるのではなく、もっと風通しのよい概念として開いて」いきたい
からだと言います。
 
 飯沢氏の文章から推察するに「私写真」とは、撮影者の「私」が決定的
な役割を果たしている写真、あるいはその写真が撮影者の生の条件を直接
的に映し出しているもののようです。幸福な家族、身近な人々の笑顔とい
うポジティブな面だけではなく、怒りや嫉妬といったネガティブな感情を
も「作品」にしているもののようです。
 「私写真」をこのようにとらえたうえで、中平卓馬深瀬昌久、荒木経
惟、牛腸茂雄という四人の写真家をとりあげ、彼らの写真表現に賭けた
「凄絶な」実践を語ることで、飯沢氏は「私写真論」を試みています。

http://www.aguni.com/hon/back/56.html


>>>鈴城雅文さんのテキスト@旧ガレリアQウェブサイト
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090730#p4


>>>西井一夫『写真的記憶』(青弓社)より
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090130#p8


>>>飯沢耕太郎編「シャッター&ラヴ (STUDIO VOICE BOOKS) 」(インファス)を1円でゲット
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090624#p8

deja-vu (写真) - Wikipedia

  • 写真に関して、撮影機器や撮影技術の紹介を主たるを内容とせず、むしろ、写真評論や作品鑑賞を主とした雑誌は、そもそも数が少ないが、その中でも、用紙、印刷技術等も含めて、最高レベルの雑誌だったと言ってよい。
  • 短命に終わったことについては、最初の編集長である飯沢耕太郎の好みを前面に押し出しすぎたせいであるとの批判もある(例えば、荒木経惟の重視など)。これに対しては、他に同種の雑誌(写真評論を主たる内容とする写真雑誌)がほとんど刊行されないことから、単に、日本にそのような市場がない(写真作品の制作から離れて、写真評論や写真鑑賞に強い興味を持つ者がほとんどいない)という点が、短命の理由であるとの反論もある。
  • 12号の特集「安井仲治と1930年代」は、1993年にワタリウムで開催された安井仲治の回顧展の展覧会カタログの位置づけでもあるが、これに対しては、1)内容が不十分であり(展示作品を網羅的に紹介したものになっていない)、しかも独立した展覧会カタログの制作を妨げることとなった、2)独立した展覧会カタログが存在しないために、この回顧展自体を歴史に埋もれさせる結果を招いた、という批判がある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/Deja-vu_(%E5%86%99%E7%9C%9F)