Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

飯沢耕太郎『戦後民主主義と少女漫画』関連

◇ 微妙な飯沢耕太郎の少女漫画論(7/25:一部改稿&加筆) - 9月11日に生まれて

 著者らしいのは岡崎京子の後にガーリー・フォトが配置されるところだ。

 ただ戦後民主主義という男性原理と、少女漫画に現れた「純粋少女」を対置させるあたりに飯沢の限界が見える。

 著者本人も男性原理や女性原理という「紋切り型」の、「バイアスのかかった言葉」を使うことに抵抗を示しているものの、結局は、

 七〇年代以降の十数年というのは、シャーマンとしての少女による少女漫画、つまり「少女の少女による少女のための純粋少女漫画」が、時代の見えない“風”に押し上げられてはじめて出現した時代です。(p.20)

 みたいな物言いになってしまう。

 浪漫主義的というか神秘学的というか、言いたいことはわかるんだけど、気持が悪い。

 少女漫画というオルタナティブな回路を「純粋少女」などという、感覚的でジェンダー二元論的な「言葉」に回収してしまっていいのか?

 それは、かつて「少女」のイコンとイデアを特権化し、物神として消費してきた「男性原理」とどう違うというのだろうか?

 飯沢は「男性原理」で掬い取れないものに「純粋少女」という名前を与えてカテゴライズすること自体が「男性原理」の発動であることを自覚していない。

「純粋少女」などという陳腐な名称を与えられた瞬間、そのわけのわからないオルタナティブな諸々は「自分が男(女)性だと思い込んでいる人々」にとって「わかったようなこと」にされ、腐り果てていく。

 オレは70年代少女漫画は、制度的・商業的な「少女向け」というセグメントを超えた、つまり回路が外界に向かって開かれたことが、一種の革命だと思っている。

「少女のための漫画」から「少女も読む漫画」へのパラダイムシフトと言い換えでもいい。

http://d.hatena.ne.jp/pecorin911/20090724/1248458030
漫画評論家永山薫さんのはてなダイアリーより。


飯沢耕太郎が漫画論? - Yahoo!掲示
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=1835004&tid=3abbaea47a4fa4dba47a4a4e8mw2qa1j20c0a45aaa0hbejsa1k&sid=1835004&mid=841


◇ おじさんだって少女である - 児童文学と音楽の散歩道

溜飲を下げたのは、「純粋少女性」という概念を、女性だけのものとして語っていないこと。
「おじさんだって少女である」
「少女漫画が戦う場所は、じつはわれわれの現実世界と幻想世界のすべての領域なのだ」そして、筆者は悲しげに付け加える…大島弓子は撤退してしまったけれど、と。

大島の近作『グーグーだって猫である』…これは、撤退してしまった作品なのか。筆者はそのように述べている。
しかし、そうなのか。私は、この作品の中で、非常に深く、強い印象を残す場面をひとつ見つけている。この一点で、私は「撤退」に異議を唱えるひとりなのだが…

http://blogs.yahoo.co.jp/izumibun/27957470.html
ブログの筆者は男性。


◇ 純粋少年性理論 - ぴっぽのしっぽ

氏のトーク
この本のタイトル、はじめは、少女漫画メインの内容で「おじさんだって、少女である!」だった、という話がおかしい。笑

飯沢氏、この本をかくにあたり、名作と言われる、少女漫画をかたはしから読んで、いちいち胸キュンした、と。
体はおじさんだけど、心は完全に「少女」らしい。

そのあと、少女漫画家のそれぞれの作品(簡単にストーリー紹介も)をとおし、うったえたいメッセージなど。
また、過去の少女漫画を踏襲し発展していった、あらたな少女漫画作品の登場のことなども。

http://blog.livedoor.jp/pipponpippon/archives/51181106.html
ブログの筆者は女性。


飯沢耕太郎戦後民主主義と少女漫画』(PHP新書

一九七〇年代から現在に至るまで、巨大な潮流をつくってきた少女漫画の歴史を、<純粋少女>をキーワードに読み解く。
とくに“二十四年組”を中心に花開いた<少女漫画>の魅力とその高度な達成について――
大島弓子の『バナナブレッドのプディング』、萩尾望都の『トーマの心臓』、
そして岡崎京子の『ヘルタースケルター』を主な手がかりに――戦後文化論として読み解く。
少女漫画のヒロインたちが抱える繊細な“怯え”は、大人の論理が強要する
安易な成熟の拒否であり、無意識の抵抗だったのではないか。
今日に至るまで連綿と受け継がれてきた“震え”や“怯え”の伝達装置としての<純粋少女>たちに、高度消費社会の諸矛盾を、戦後民主主義の限界を乗りこえる
可能性をみる。巻末に「少女漫画の名作一覧」を収録。

http://www.amazon.co.jp/dp/4569705146
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/AAT76226/
「序章 七〇年代少女漫画前史-戦後民主主義と成熟の拒否」と
「終章 純粋少女と少女漫画のいま」のみ、ざざっと立ち読み。
大塚英志さんの少女(漫画)論や
友人の薦めなどがきっかけとなって、
この本を書いたという話です。

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◇ 1つ下の業績リストについて - MIYADAI.com Blog

・(飯沢耕太郎、唐澤俊一)「少女幻想批判序説--少女・十三歳」(『早稲田文学』1997年7月号)

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=556
飯沢耕太郎さんが参加した鼎談。


◇ 目次紹介 - 宮台真司 dialogues×blog

飯沢耕太郎、唐澤俊一 少女幻想批判序説 ●少女・十三歳(早稲田文学)P237

http://d.hatena.ne.jp/miyadialogues/20061209/p1
宮台真司ダイアローグスI』(http://www.amazon.co.jp/dp/490314500X)に収録されているようです。


◇ Shinji Miyadai : What's New on Miyadai and Home Pages. - 宮台真司とその思想

だいぶ前に聞いてたのにうっかり書き忘れてたのですが、『早稲田文学』 1997 年 7 月号 に宮台が「少女幻想批判序説」というのを書いているそうです。内容は飯沢耕太郎と唐澤俊一との鼎談とのこと。早稲田大学出版部へ問い合わせれば入手できるそうです。
(thanx!! > Takeda さん、匿名さん)

http://www.asahi-net.or.jp/~IX7R-NNB/Horobi/Miyadai/new-1.html


◇ ARTIFACT ―人工事実― : シングルCDを購入する人たち

コミュニケーション・ツールとしてのプリクラ〜使い捨てカメラ〜ヒロミックス〜アウフォト、みたいな流れについては、宮台真司×唐沢俊一×飯島耕太郎の鼎談がありました。神戸須磨のあの事件を扱った本に載っていたはず(「透明な存在の不透明な悪意」だったか)。
もっとも、コミュニケーション・ツールとしてのJポップは、もうすっかりケータイに食われ終わっているような気がするんですが、どうでしょう?

http://artifact-jp.com/mt/archives/200312/singlecd.html


宮台真司 透明な存在の不透明な悪意  - Yahoo!オークション

対談者:香山リカ島田雅彦山崎哲、吉岡忍、内田良子、芹沢俊介鈴木光司飯沢耕太郎唐沢俊一

http://page8.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/h128437990
※春秋社(1997/11)→http://www.amazon.co.jp/dp/4393331753


笙野頼子「だいにっほん、おんたこめいわく史」 - 「壁の中」から

ところで、ここ最近私は「Gunslinger Girl」を「倫理的」に批判し続けてきたが(参照)、そこで私が見いだしていた問題と、今作で笙野が批判している問題は、たぶんかなり近いものではないかと思う。それはごく単純化すれば、「少女を利用した男たちの自己正当化によって、少女自身が抑圧される構図」だ。そういった傾向が最近のオタク的表現にあるように私は考えていて、「ガンスリ」はそのもっとも典型的な具体例として批判していた。

オタク表現、というか「美少女」にまつわる倫理的な問題を扱った本にササキバラ・ゴウの「<美少女>の現代史」がある。この本では男が美少女を性的に見ることについての問題を扱っていて、わりと踏み込みが浅いものの、私と問題意識の持ち方が共通している面もあり、興味深い本だ。この本の終章、現代の美少女について語っている部分で、ササキバラはこう書く。

まず第一に、視線を受けとめる相手として、決して傷つくことのない「キャラクター」がますます求められているということ。人間ではなくキャラクターが相手なら、男性は安心して自分の視線をさまよわせ、そこに秘められた暴力性を解放し、思う存分「見る」ことができます。美少女を表現した多くのまんが、アニメ、ゲーム、フィギュア、小説などは、そのような欲望を受けとめてくれるものとして、消費されつづけています。そこでは、私は安心して「純粋に視線としての私」になれるのです。
 第二には、かつての「特権的な僕」の座を回復しようとして、「彼女の内面」をフィクションとして作り上げ、既に消えてしまった旧時代の少女まんがを男の手で再建しようとすることです。七〇〜八〇年代のロマコメやラブコメ少女まんがの表現が、そのまま移植されたかのような作品が、九〇年代以降の男性向け作品には目立ちます。
 このふたつの欲求が、矛盾することなく同居するさまは、特に九〇年代後半以降のギャルゲーにわかりやすく表われています。そこでは、エロまんが的な凌辱する視線と、きわめて内面的で叙情的なテキストが、軋轢を起こさずに同居しながら表現されています。
講談社現代新書「<美少女>の現代史」181-182P

ササキバラのいう「特権的な僕」とは、少女漫画で表現されていた女性の内面描写を通して、女性の理想像としての「本当の自分をわかってくれる彼」になろうとした男たちのことで、少女漫画での内面表現が大幅に後退してしまってから、その座を奪われてしまったという)

視線の対象物として消費しつつ、自分は彼女たちをわかってあげられるというほとんど矛盾するような二面性を象徴するものとして、「美少女」が求められている、と言うのだ。

笙野が大塚に見いだしていた言説のあり方は、上記引用とも通底するもののように思われる。論争では笙野は何度も大塚をロリ・フェミと呼んでいるが、それは以下のような言説を指す。
ロリ・フェミとは文壇の女性差別体質に上手に付け込んで実力以上のランクをこの世界で手に入れ、その上文学や女性に対してたかをくくり現実感を喪失しているあさはかな状態の、自称少女代弁者を評した言葉なのです。ロリ・フェミは少女のイメージのユーザーにして少女のスポークスマン、少女の抑圧者、そして男性評論家は大人の女作家の仕切り屋をもかねた黙殺者である、そりゃ意気投合ですよ。
「徹底抗戦! 文士の森」122P

http://inthewall.blogtribe.org/entry-3ba161935c1cb0b8a5e44c8185e3b1e8.html
kingさん(id:CloseToTheWall)の旧ブログより。