臥薪嘗胆
先週始まったグループ展ですが、
プロセスとアウトプットについて
反省点すべき点が多々あり。
何事も経験です。
>>>新連載 田中功起 質問する 1-1:土屋誠一さんへ - ARTiT
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20091024#p3
>>>田中功起、言葉にする「大城カズさんと話す、その1 約37分」「大城カズさんと話す、その2 約25分」
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20091129#p2
その2を。
>>>【プロフィール】(6)清水建設(その1) - アラキラボ
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20091121#p5
再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090505#p5)+1
■美術手帖 2009年3月号 「清水穣の提案」 - Asanopiyo's Scrapbook
http://asanopiyo.tumblr.com/post/81694343/omolo-2009-3
◇ shikatanai
大抵の国際団体展は、招待作家がせいぜい平均値の代表作を出すことが多く、面白い作品と出会うことは実はまれなのだが、去年の横浜トリエンナーレは意外にもそれなりに見応えのある内容だった、と言えるのは、「それなり」な本会場が良く見えるほどに最低な若手の展覧会が近隣で開催されていたからだ。「THE ECHO」展は、2000年代にデビューした現代美術(株)で係長程度に出世した中間管理職作家、つまり「現代美術」という衣をまとった裸の王様たちがバラバラに衣装を披露するだけで、その既視感満載の保守性、「現代美術」の制服さえ着ていれば意味は全て他人に押しつけて構わないナルシスティックなダサさ、せっかく画廊外で発表するというのに画廊内個展から一味も違えない政治的鈍感に対しては、まさに恥という言葉しか浮かばない。美術雑誌に載り世界のアートフェアでも売れて、少しは認知されてきたと思いこんで国際展の袖舞台で貧弱な「裸」を曝した三十路過ぎの「若手」たち。デビュー数年でこんなに緩んで、リーマンショック以降の冷たいアートワールドでどう生き残るのだろうか。
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Amazon.co.jp: 美術手帖 2009年 03月号 [雑誌]: 本
清水穣
日常と無意味の罠 ポストゼロ年代の中間報告 INTRODUCTIONより
http://shikakun.tumblr.com/post/84776011
◇ 美術手帖 2009年 03月号 [雑誌]: 本 - Amazon.co.jp
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B001R50OUS
対照 佐内正史の写真(飯沢耕太郎) - artscapeレビュー
会期:2009/10/10〜2010/01/11
佐内正史が持ち直しているのがわかって、とりあえずほっとした。昨年から立ち上げたネット販売の写真集レーベル「対照」の最初の3冊、『浮浪』『DUST』『trouble in mind』があまりにもひどい出来だったので、これはもう佐内の神通力も失せたのではないかと、内心見限っていたのだ。
http://artscape.jp/report/review/1210058_1735.html
ここ2、3年の佐内正史さんと飯沢耕太郎さんの対談を
ひととおり振り返ってみると面白いかもしれません。
※過去の佐内正史さん関連
http://d.hatena.ne.jp/n-291/searchdiary?word=%ba%b4%c6%e2%c0%b5%bb%cb
※過去の飯沢耕太郎さん関連
http://d.hatena.ne.jp/n-291/searchdiary?word=%c8%d3%c2%f4%b9%cc%c2%c0%cf%ba
再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090830#p3)
■宮台真司『終わりなき日常を生きろ オウム完全克服マニュアル』(ちくま文庫)より
「オタク文化の影響だ」「SFアニメ世代だ」などというのは、少女文化とシャーマニズムの同一性を語ることで分かった気になる「八〇年代的少女論」と同列の「類似の思考」に過ぎない。私たちは、何か新奇なものが出てきたとき、ちょうど未開人と同じように、かつて存在したものとの「類似」を指摘してもらうと安心しがちである。「類似の思考」とは、そんな「ありがちな心性」に寄生する、社会科学的にはデタラメな納得の図式のことだ。
http://www.amazon.co.jp/dp/4480033769
宮台真司さんによる、この大塚英志さん批判は、
そのまま飯沢耕太郎さんの著書『戦後民主主義と少女漫画』にもあてはまるかもしれません。
◇ 微妙な飯沢耕太郎の少女漫画論(7/25:一部改稿&加筆) - 9月11日に生まれて
著者らしいのは岡崎京子の後にガーリー・フォトが配置されるところだ。
ただ戦後民主主義という男性原理と、少女漫画に現れた「純粋少女」を対置させるあたりに飯沢の限界が見える。
著者本人も男性原理や女性原理という「紋切り型」の、「バイアスのかかった言葉」を使うことに抵抗を示しているものの、結局は、
七〇年代以降の十数年というのは、シャーマンとしての少女による少女漫画、つまり「少女の少女による少女のための純粋少女漫画」が、時代の見えない“風”に押し上げられてはじめて出現した時代です。(p.20)
みたいな物言いになってしまう。
浪漫主義的というか神秘学的というか、言いたいことはわかるんだけど、気持が悪い。
少女漫画というオルタナティブな回路を「純粋少女」などという、感覚的でジェンダー二元論的な「言葉」に回収してしまっていいのか?
それは、かつて「少女」のイコンとイデアを特権化し、物神として消費してきた「男性原理」とどう違うというのだろうか?
飯沢は「男性原理」で掬い取れないものに「純粋少女」という名前を与えてカテゴライズすること自体が「男性原理」の発動であることを自覚していない。
「純粋少女」などという陳腐な名称を与えられた瞬間、そのわけのわからないオルタナティブな諸々は「自分が男(女)性だと思い込んでいる人々」にとって「わかったようなこと」にされ、腐り果てていく。
オレは70年代少女漫画は、制度的・商業的な「少女向け」というセグメントを超えた、つまり回路が外界に向かって開かれたことが、一種の革命だと思っている。
「少女のための漫画」から「少女も読む漫画」へのパラダイムシフトと言い換えでもいい。
http://d.hatena.ne.jp/pecorin911/20090724/1248458030
漫画評論家・永山薫さんのはてなダイアリーより。
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090817#p5
◇ はてなブックマーク - 微妙な飯沢耕太郎の少女漫画論(7/25:一部改稿&加筆) - 9月11日に生まれて
amiyoshida マンガ 少女マンガ懐かし本として読んだ。 2009/08/18
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/pecorin911/20090724/1248458030
>>>飯沢耕太郎「写真家たちのステージ──「写真新世紀」と「ひとつぼ展」」より
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090819#p3
>>>篠山紀信 ピュアな感性とパワーが「表現者」として自立する時(「写真ブーム」の勘違い/『egg』とHIROMIX/スケベな評論家の虚妄性/「私写真」は新しくない/プロの写真家とは何か)より
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090829#p4
>>>ガーリーフォト - Wikipedia ※2009年4月1日 (水) 08:01; 61.202.18.21 (会話) による版
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090829#p3
◇ 終わりなき日常を生きろ / 宮台 真司 著 - 筑摩書房
この本の内容
「さまよえる良心」と「終わりなき日常」をキーワードに、今最も活発な発言を続ける著者が、オウムと現代社会を分析する。社会が成熟し、幻想が共有されなくなった時代、人はそれぞれの物語を生きるようになっている。その後の事件、状況分析を加えたあとがきを新たに付す。目次
第1章 「オタク論・連赤論・二重組織論・邪宗論」はデタラメ
第2章 「さまよえる良心」がアブナイ
第3章 「終わらない日常」はキツイ
第4章 コミュニケーション・スキルという知恵
ウェブサイト更新(昨日)http://www.nobuhiro-fukui.com/
◇「photographs 37」に1点追加
http://www.nobuhiro-fukui.com/frame_thumb_01.html