Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

海の中道海浜公園 - Google マップ

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大観峰 - Google マップ
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92869-2313+%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%9C%8C%E9%98%BF%E8%98%87%E5%B8%82%E5%B1%B1%E7%94%B0+%E5%A4%A7%E8%A6%B3%E5%B3%B0/@32.9967662,131.0671205,3177m/data=!3m1!1e3!4m2!3m1!1s0x3541244778a75a13:0xd2d7c47437373478!5m1!1e4

現代革命の新たな考察 « 法政大学出版局

叢書・ウニベルシタス 1020
現代革命の新たな考察


エルネスト・ラクラウ:著, 山本 圭:訳
四六判 / 406ページ / 上製 / 定価:4,200円 + 税 
ISBN978-4-588-01020-0 C1310 [2014年12月 刊行]

ポピュリズムが跋扈する現実社会との対決から、新しい民主主義のための政治理論を創造する。「敵対性」「転位」「偶発性」「ヘゲモニー」といった重要概念を理論的に定式化し、ポスト・マルクス主義からラディカル・デモクラシーに至る射程へその可能性を展開させた現在の民主主義研究における基礎文献。シャンタル・ムフとの共著論文、精神分析理論と政治理論を節合させたスラヴォイ・ジジェクによる重要な論考も付す。

エルネスト・ラクラウ(ラクラウ,E.)
(Ernesto Laclau)
1935年アルゼンチン生まれ(2014年没)。長年にわたって英国エセックス大学にて研究活動を展開。ポスト・マルクス主義およびラディカル・デモクラシーの理論家として知られる。邦訳には『資本主義・ファシズムポピュリズム――マルクス主義理論における政治とイデオロギー』(柘植書房)、『民主主義の革命――ヘゲモニーとポスト・マルクス主義』(筑摩書房シャンタル・ムフとの共著)、『偶発性・ヘゲモニー・普遍性――新しい対抗政治への対話』(青土社ジュディス・バトラースラヴォイ・ジジェクとの共著)、また未邦訳の著書に『(複数形の)解放』、『ポピュリズム的理性について』、『社会の修辞的基礎付け』などがある。


山本 圭(ヤマモト ケイ)
1981年京都府生まれ。名古屋大学大学院国際言語文化研究科単位取得退学。博士(学術)。エセックス大学政治学研究科留学、日本学術振興会特別研究員などを経て、現在、岡山大学大学院教育学研究科専任講師、国際基督教大学社会科学研究所研究員。専門は政治学、政治理論。論文に「ポピュリズムの民主主義的効用」(『年報政治学』2012)、共編著に『ポスト代表制の政治学』(ナカニシヤ出版、近刊)、そして共著に『労働と思想』(堀之内出版、近刊)などがある。

謝辞

序文

第Ⅰ部

第1章 現代革命の新たな考察


第Ⅱ部

第2章 社会の不可能性について
第3章 精神分析マルクス主義
第4章 釈明なきポスト・マルクス主義──シャンタル・ムフとともに


第Ⅲ部 南アフリカについて

第5章 エルネストへの書簡──アレッタ・J・ノーバル
第6章 アレッタへの書簡


第Ⅳ部 インタビュー

第7章 ニューレフトの形成
第8章 理論、民主主義、社会主義

付録 言説 ― 分析を超えて──スラヴォイ・ジジェク

訳者あとがき

事項索引
人名索引

http://www.h-up.com/bd/isbn978-4-588-01020-0.html

Site In Residence

サイト・イン・レジデンス「環世界」
 「サイト・イン・レジデンス」はある一つのサイト(=場所)との関わりを重視したアーティスト・イン・レジデンス プログラムです。私たちはアーティストとサイトの創造的な出会いを媒介し、新たな発想をつかむプロセスを協働して生み出していきます。アーティストは一定期間サイトに通い、リサーチ(調査)や創作活動に取り組みます。

 サイトとなる元米海軍「深谷通信所(Fukaya Communication Site)」周辺地域は、私たちの立つこの土地と人との関わりについて、深い問いかけを発する場所です。 この土地は、先の大戦中に日本海軍の用地買収で生まれ、戦後は米海軍に接収され送信基地として利用されてきました。それと同時にここは、地域の人々が家庭菜園や野球場、ゲートボールコートなどを自主管理する、人々の憩いの場でもありました。
 
 軍事戦略上の必要から生まれ利用されてきた土地が、人々に開かれた共有地でもある。直径1キロ、円周3キロの環状の境界線で区切られたこの円形の土地では、そんな特異な土地利用が実践されてきました。そして現在、この土地は新たな利用への移行期にあります。
 
 3人のアーティストがこの土地を訪れ、一旦閉じられつつあるこの円環を前に、それぞれの時間を過ごします。

http://www.siteinresidence.org/

BMW Tate Live: Meiro Koizumi - YouTube

2013/06/14 に公開
A second chance to watch Meiro Koizumi’s performance of The Birth of Tragedy captured live Thursday, 13 June, 2013 at Tate Modern.


Performance Room is a series of performances commissioned and conceived exclusively for the online space. Performances are streamed live from the Performance Room at Tate Modern and then made available to watch online after the event. Find out more about the 2013 Performance Room Series: http://www.tate.org.uk/whats-on/tate-modern/eventseries/bmw-tate-live-2013-performance-room


For the Performance Room, Meiro Koizumi has adapted his 2012 video It’s a Comedy, which blurs the lines between comedy and cruelty. The Birth Of Tragedy is a unique online performance in which a performer reads from The Anti-Christ by Friedrich Nietzsche whilst five other performers are invited to intervene.


Meiro Koizumi (b. 1976, Gunma, Japan) lives and works in Yokohama. Koizumi’s practice combines video work with collage and drawing, often constructing scenarios which build up to a situation becoming out of control, breaking or distorting social rules. Recent solo exhibitions include the Museum of Modern Art, New York (2013), Art Space, Sydney (2011) and the Mori Museum, Tokyo (2009). He has participated in numerous group shows such as Future Generation Art Prize, Pinchuk Art Center, Kiev (2012), Hara Museum, Tokyo (2011), Liverpool Biennial (2010), Media City Seoul (2010), and Aichi Triennale, Japan (2010).

http://youtu.be/7vpL5oax9DM

Franz Erhard Walther in conversation with Hans Ulrich Obrist » Audio » Study » Drawing Room

http://drawingroom.org.uk/study/resources/franz-erhard-walther-in-conversation-with-hans-ulrich-obrist


◇ Franz Erhard Walther, Changing the Definition of Sculpture - archivespacethroughaction
http://arttattler.com/archivespacethroughaction.html
ZKMのアーカイヴ記事のミラーもしくはコピー?


>>>Franz Erhard Walther | Exhibitions | WIELS
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20140930#p9

Slide Piece, 1972-73 - Coleman, James - Macba

http://www.macba.cat/en/slide-piece-1972-73-2751


◇ James Coleman - YouTube

Vidéo installation Museo de la reina Sofia - Madrid

http://youtu.be/db-MdUWgWK0


◇ James Coleman - Box (ahhareturnabout) - Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofía

Date: 1977
Edition/serial number: 4/4 + 1 CA + 1 CTSA
Media description: 16 mm black and white film with synchronized audio narration
Duration: 5 min. 02 sec.
Colour: Black and white
Sound: Optical sound
Category: Cinema, Installation
Entry date: 2009
Register number: AD05430
Courtesy of James Coleman ©

http://www.museoreinasofia.es/en/collection/artwork/box-ahhareturnabout

Johan Grimonprez

http://www.johangrimonprez.com/


◇ dial H-I-S-T-O-R-Y by Johan Grimonprez Trailer 1 - YouTube
http://youtu.be/vWyiY0JywC4


◇ dial H-I-S-T-O-R-Y by Johan Grimonprez Trailer 2 - YouTube
http://youtu.be/WQKkUHF0pkM


◇ Dial H-I-S-T-O-R-Y - Wikipedia, the free encyclopedia

Dial H-I-S-T-O-R-Y, a 68 minute-long film by director Johan Grimonprez, traces the history of airplane hijackings as portrayed by mainstream television media. The film premiered in 1997 at the Musée National d'Art Moderne (Centre Georges Pompidou (Paris); and at Catherine David's curated Documenta X[1](Kassel). "This study in pre-Sept. 11 terrorism"[2] is composed of archival footage material — interspersing reportage shots, clips from science fiction films, found footage, home video and reconstituted scenes — the work is interspersed with passages from Don DeLillo's novels Mao II and White Noise, "providing a literary and philosophic anchor to the film."[3] According to the director, "Dial H-I-S-T-O-R-Y's narrative is based on an imagined dialogue between a terrorist and a novelist where the writer contends that the terrorist has hijacked his role within society."[4] The film`s opening line, taken from Don DeLillo`s Mao II, introduces the skyjacker as protagonist. Interplaying fact and fiction, Johan Grimonprez said that the use of archival footage creating “short-circuits in order to critique a situation”,[5] may be understood as a form of a Situationist Détournement.[6]

http://en.wikipedia.org/wiki/Dial_H-I-S-T-O-R-Y

Glimpses of the U.S.A. Film | Eames Office

1959
For its first USSR-USA cultural exchange, the U.S.I.A. commissioned the Eames Office to make this film on “a day in the life of the United States.”

The thirteen-minute film was narrated by Charles Eames. It was projected onto seven twenty-by-thirty foot screens, which were installed in a 250-foot diameter geodesic dome designed by Buckminster Fuller, in Moscow’s Sokolniki Park.

The multiple images communicated what no typical lecture could. They demonstrated that (for better or worse) highways and automobiles were part of the fabric of American life; however, the images also depicted loving images of families hugging goodbye before work and kissing goodnight before bed. A modern marvel of technology was being used to show its overseas viewers the humanity of their rivals.

The film made for a dynamic introduction to the American National Exhibition. It concluded with an image of forget-me-nots—a metaphor that was not lost on the audience, since the translated name for the flowers is the same in Russian as it is in English.

http://www.eamesoffice.com/the-work/glimpses-of-the-u-s-a-film/

再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20140903#p5)

◇ 小特集:研究ノート:プレ・メディウム的条件──拡張映画とニューメディア論(古畑百合子)- 表象文化論学会ニューズレター〈REPRE〉

ここ数年、美術史家のロザリンド・クラウスによって提唱された「ポストメディウム的状況」という言葉が映画学やメディア研究の領域で使われることが増えてきた。「ポスト」という形容詞は時代的な転換、あるいは状況の変化を示唆する。そのせいか、90年代以降のニューメディア論の領域ではポストメディウム的状況という概念は、デジタル革命以降のメディア環境、つまり記録・伝達媒体としての近代メディアが独立性を失って融合していく技術的な状況と重なるものとして意外と短絡的に捉えられることが多い。しかし、クラウスが意味するポストメディウム的状況は、もともと60年代から台頭したインターメディア、そしてインスタレーションという「芸術一般」(art-in-general)へと向かう作品がコンセプチュアル・アート以降急増していった歴史的状況を分析するために使われた概念である(※1)。アートの「可能性の条件」としてのメディウムの固有性を擁護するクラウスにとって、デジタル・コンバージェンスなどの言説に代表される90年代以降のメディア環境の変化は、必ずしもポストメディウム的状況とは重ならない。なぜなら、フリードリヒ・キットラーやマーク・ハンセンなどのニューメディア論者が唱える「メディウム」概念と、クラウスが美術史の文脈から引き出す「メディウム」概念は同義ではなく、別々の認識論的な見地に基づいているからだ(※2)。もちろん、重なる部分は少なくない。けれども、この二つの文脈が取り替え可能なものとして誤解されることで、逆に見えなくなってしまうテクノロジーとアートの歴史的な関係性がある。そのためにも、いったんニューメディア論の言説から離れてクラウスのメディウム論に戻ることで、ポストメディウム的状況という概念を映画学やメディア研究の領域に再度取り込む作業が必要とされている。そのような必要性を前提に、この小論では固有性ではなく一般性へとアートが向かうポストメディウム的状況への批判としてクラウスが展開した「メディウム」の再定義、とくにそれを支える「技術的支持体」と呼ばれる概念に注目し、60年代に台頭した拡張映画(エキスパンデッド・シネマ)をケーススタディとして「プレ・メディウム的」とでも呼びうる技術的支持体の条件について考えてみたい。

http://repre.org/repre/vol21/post-museum-art/note01/

Image ForumさんはTwitterを使っています: "メカスの誕生日を挟んで久しぶりにシアター・イメージフォーラムで『リトアニアへの旅の追憶』を上映します。12/13〜26(18、25は休映)連日11:30モーニングショー、日本語字幕付35mmブローアップ版上映です。"

https://twitter.com/image_forum/status/538322383082233857
http://www.imageforum.co.jp/lithuania2014/index.html

【ニュース】「バーネット・ニューマン 十字架の道行き」展 ゲストキュレーターに大島徹也氏 | Art Annual online

来年3月にMIHO MUSEUM(辻惟雄館長)で春季特別展「バーネット・ニューマン 十字架の道行き」が開催されるのに伴い、メディア向けセミナーが11月17日に東京・大手町で開催された。

セミナーには辻館長のほか、同展を担当するゲスト・キュレーターの愛知県美術館主任学芸員・大島徹也氏、春季に同時開催される「曽我蕭白『富岳図屏風』と日本美術の愉悦」を担当する同館学芸員・岡田秀之氏が出席。来春に開催の2つの展覧会について、セミナー形式で詳細を紹介した。

バーネット・ニューマン 十字架の道行き」展はジャクソン・ポロックマーク・ロスコらとともにアメリカ抽象表現主義の中心的存在として知られるバーネット・ニューマン(1905〜70)の後期連作であり、傑作として称される「十字架の道行き」14点および「存在せよ Ⅱ」を日本で初めて公開するもの。辻館長は今展実現の経緯について、「通常、ワシントン・ナショナル・ギャラリー(以下NGA)に展示されている同作だが、このたび同館のリフォーム休館にあたり、館から直接展示の打診があり、実現に至った。またNGAとMIHO MUSEUMは設計が建築家I.M.ペイであるという共通項があり、今展実現のきっかけの1つともなっている。また作品に必要な保険料もNGAが全額負担となる」と説明。またゲストキュレーターを招へいしたことについて「当館は現代美術、特にニューマンに詳しい学芸員がいない。そこで大原美術館館長の高階秀爾氏に紹介してもらい、大島氏にお願いすることになった」とした。

今回、ゲストキュレーターとして展覧会を担当する大島氏は愛知県美術館主任学芸員として2011年〜12年にかけ同館で開催された「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」(東京国立近代美術館に巡回)を企画。その功績が認められ、第7回西洋美術振興財団賞・学術賞を受賞している。

http://www.art-annual.jp/news-exhibition/news/43091/

ロザリンド・クラウスによる「タスクのパフォーマンス」の説明 - Blog: Sato Site on the Web Side

「ニューヨークのジャドソン・メモリアル教会に集まったパフォーマーたちによって水路が開かれ、ありふれた動作のダンスあるいは「タスクのパフォーマンスtask performance」というこの新しい概念は、「内面」をもたない身振りを作るというひとつの方途を活発に追求していった。バレエ的な身振りは、我々が感じるように、つねに内面に潜む意味を、音楽ないし身体の洗練された情念の意味を、現実の時間と空間が閉じ込められ既に確立された慣習によって構造化されている不可触的な領域の意味を表現する。ダンサーの身体は、決まって、これらの意味を外在化するよう働いている。従って、こうした意味がなければ、身体はありふれており、ジョガーや労働者やただ階段を降りるひとの身体と大差なくなるのである。
 「ありふれた動作ordinary movement」というダンスを考えることで、ジャドソンのダンサーたちは、いわば「日常言語ordinary language」という観念との連帯を宣言した。「日常言語」とは、言語についての行動主義的視点の内へ心/身の区別を解消させようとする哲学がもっていた観念である。語の意味はその使用である。彼らはこうしたヴィトゲンシュタインの思考をよく諺として引き合いに出したものだった(実際に読んでいたかどうかはともかく)。語の意味するところが何かを知ることは、ひとが言及するその語の「意味」の像を心の内にもつことではない。むしろ語の意味とは、その語を用い、その語を実際に運用するperformあるひとの隠れようのない能力が持ち合わせている機能にすぎない。もし心の内に想定されている像が全く主観的で私的で、私だけがアクセス出来る何かだとしても、その語が成就することは公的である。つまり、私はそれを正しく使用するか、そうでないかのどちらかでしかない。」(Rosalind Krauss, “The Mind/ Body Problem: Robert Morris in Series” in Robert Morris: The Mind/ Body Problem, New York, 1994, p. 6)

http://blog.goo.ne.jp/kmr-sato/e/55f9637fb7256863c34d990443ea409b
木村覚さんのブログより。

細川護貞 - Wikipedia

細川 護貞(ほそかわ もりさだ、1912年(明治45年)7月17日 - 2005年(平成17年)10月3日)は、旧肥後熊本藩主細川家の第17代当主。第2次近衛内閣で内閣総理大臣秘書官を務めた。

1912年(明治45年)細川侯爵家の16代目当主細川護立と細川博子の子として生まれる。曾祖父に島津忠義鍋島直正京都帝国大学狩野直喜博士の教えを受ける。同大学法学部卒業後、企画院嘱託。
1940年(昭和15年)、第2次近衛内閣で首相秘書官に就任する。1943年(昭和18年)、昭和天皇の弟宮高松宮宣仁親王の御用掛となり宮中グループを中心に各方面の有識者から情報や意見を収集し、海軍グループで同郷出身の高木惣吉海軍少将に協力して東條英機暗殺未遂事件や終戦工作の一翼を担い、戦時中の動静を「細川日記」として戦後発表している。
戦後は政治から一線を引き、細川家当主として、伝来の書画茶道具などの工芸美術品を管理するため設立された財団法人永青文庫の理事長に就任。神社本庁統理、日本工芸会会長、日本ゴルフ協会会長なども務めた。また、美術愛好家として著書を多く出している。
1969年(昭和44年)、長男の護熙が政界入りの野心を見せると反対し、「そんなヤクザな道に入るのなら、家とは縁を切ってくれ。カネも含めて今後一切の面倒は見ない」と勘当を言い渡した。護熙は第32回衆議院議員総選挙に立候補し落選したが、後に参議院議員熊本県知事に転じた。1993年(平成5年)、護熙は日本新党代表として第40回衆議院議員総選挙で当選し、55年体制以降では自民党以外で初めて首相に就任した。しかし、その際のインタビューで護貞は喜ぶ様子もなく「あれの性格ではいずれ投げ出すだろう」という趣旨の発言をし、周囲を唖然とさせた。だが、結果的に翌年4月に護熙は電撃辞任することとなった。
晩年は、高齢で病気がちで表には出なかった。2005年(平成17年)10月3日、心不全のため93歳にて死去。

細川日記
太平洋戦争最中の昭和18年11月から昭和21年10月までの日記。岳父の近衛文麿首相秘書官を務めていた事から、戦中期は近衛の意を受け、高松宮に各種情報を報告する任務についた。この時期を挟む日記で、「昭和史」の貴重な資料と目される。特に、日本が日中戦争から太平洋戦争に向かう時代の、軍部と政界の緊迫する様子や重臣たちの動静を伝えている。師の狩野直喜により「黙語録」と命名された。近代日本史学者柴田紳一は「時局と日本を憂える真情が、冷静な観察眼をもって描かれ、細川という人物の人格をも偲ばせる」と評している。

  • 『細川日記』 中央公論社 1978/中公文庫上・下 1979/中公文庫BIBLIO上・下 2002 
    • 旧版 『情報天皇に達せず 細川日記』 (上・下巻)、同光社磯部書房 1953

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E8%AD%B7%E8%B2%9E

暗号形態 - Wikipedia

暗号形態(あんごうけいたい)は、カール・ヤスパースの実存哲学の概念のひとつであり、実存の絶対意識において聞きとれる超越者のことばを意味する語。

ヤスパースによれば、超越者(人格的には「神」と呼ばれる)は、「暗号」というかたち(暗号形態)においてのみ立ち現れる。すべての事象は、超越者による存在意識への最終的な変革に対応して、超越者の「暗号」となり、世界はいわば「暗号の世界」となる。彼は「暗号」は3種に区分されるとし、歴史的瞬間において、その都度1回限り直接絶対意識に映ずる暗号(「超越者の直接的なことば」)を第一言語とした。第一言語が伝達可能なかたちに普遍化されたものが神話や芸術などであり、ヤスパースはこれを第二言語とした。そしてまた、哲学的伝達の可能な第三言語を形而上学における思弁的なことばだとした。
実存は、これらの「暗号」を自らの限界に突きあたる挫折の経験を通して、解読されなければならない。それがヤスパースの唱える「暗号解読」である。ヤスパースは、暗号を解読するためには、人は日常の生活経験から脱して「限界状況」に立たなければならないとして、これを通して暗号の真の意味をとらえることができ、超越者に直面することができるのだとした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%97%E5%8F%B7%E5%BD%A2%E6%85%8B

妄想 - Wikipedia

妄想(もうそう:delusion)とは、非合理的かつ訂正不能な思いこみのこと。妄想を持った本人にはその考えが妄想であるとは認識しない(むしろ病識がない)場合が多い。精神医学用語であり、根拠が薄弱であるにもかかわらず、確信が異常に強固であるということや、経験、検証、説得によって訂正不能であるということ、内容が非現実的であるということが特徴とされている。日常的な会話でも用いられることもあるがそのときはいかがわしい考えや空想を表し、必ずしも病的な意味合いを含むわけではなく軽い意味で使われている。
妄想と一言にくくっても、その内容や程度は個人差が大きい。軽度で生活に支障をほとんど来さないものから重大な支障を来すようなものまで様々である。本人が妄想であるとは自覚していない(「病識」がない)ことが多いが、漠然と非合理性に気づいている場合(いわゆる「病感」がある状態)、あるいは他者の前では隠すことができ生活に適応している場合(いわゆる「二重見当識」)など様々である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%84%E6%83%B3