◇ どこまでいってもかみあわない、エアー対談〜『リアルのゆくえ』 大塚英志+東浩紀著(評:栗原裕一郎)- NBonline(日経ビジネス オンライン)
「おたく」は大塚英志がこだわっている表記で、彼の論では「おたく」と「オタク」は厳密に使い分けられる。それがどんな議論かには踏み込まないが、ようするに「おたく」は大塚を、「オタク」は東浩紀を表象しており、この副題は「大塚英志/東浩紀」と読み替えることが可能だ。
その程度の解読を(当人が意識するか否かに依らず)やってのける素地を持った読者、つまり、大塚英志や東浩紀、および彼ら界隈の人たち(対談中に頻繁に名前のあがる宮台真司やその影響下にある若手など)が織りなすサークルに「萌える」人々が本書の想定ターゲットということになるだろう。
まあ、狭い。とはいえ、本書は発売後すぐに1万部の増刷が決まったそうで、それくらいの市場は抱えている、現在の商業出版にとっては十分に広い「狭さ」であるわけだ。
さて。
大塚英志はおんなじことしかいわない。私は量産される彼の本になかなか忍耐強くつきあってきたほうだと思うし、『物語消滅論』(角川oneテーマ21、2004年)が語り下ろしで出たときなど、さる文芸評論家が「使い回しばっかじゃん、いい加減にしろよ」と呆れたのに対し、「や、それでもけっこう見るところがあるよ」とプライベートな会話で弁護したほどなのだが、その後『更新期の文学』(春秋社、2005年)を読んだとき「使い回しばっかじゃん、いい加減にしろよ」と呆れ、以来大塚は読んでいない。
東浩紀もおんなじことしかいわない。おまけに東は基本的に人の話を聞かない。「アラザル」というミニコミのインタビューで批評家の佐々木敦が、東の対談における発言は「対談してるはずなのに相手の発言を取っ払っちゃうとモノローグになっちゃう」と評していた。
おんなじことしかいわないふたりが対談するのであるから、当然、噛み合わない。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080926/171756/
社会を統治するシステム(端的には「国家」)のグランド・デザインという「公」に、「個」の領域から積極的に働きかける言論を知識人は繰り出すべきであり、大衆もその回路に参画できるように「啓蒙」に努めるべきである、というのが大塚の主張だ。
対して東は、Googleのような民間企業の提供するインフラによって、政府とは別個の公共性が支配的になりつつある現在、大文字の「政治」にコミットすることに積極的な意味は見つけにくい、「動物化」した大衆(オタク)を「啓蒙」するなんて無理だし無意味なのであって、むしろオタクたちがそういう環境のなかで〈ぬるぬるハッピーに〉生きていける状況をキープするのが知識人としての自分の役割ではないかと主張する。
東はオタクたちの「ぬるさ」を〈戦後日本の価値観のある種の完成型〉と形容するのだが、これを「戦後民主主義」と読み替えた(聞き違えた?)大塚が烈火のごとく噛みつく。ここから禅問答が本格化していく。
〈大塚 (……)君が、戦後民主主義的なものの帰結みたいなもの、おたくたちの遊び場みたいなところで実現しようとしている人間像が戦後民主主義的な何がしかだとしたら、そのイメージっていうものがぼくにはまず理解できないし〉
そういったあと、戦後民主主義と「公」みたいな話がひとしきり続き、言論が「公」に働きかける可能性を諦めて傍観者風を吹かせている東浩紀はじゃあなんで批評家なんて商売をいまだにやっているのだ、言論人の「責任」や如何に、といった糾弾にすり替わっていく。
東は「富の再分配」についてさえ、「もっと洗練されたシステム」をつくって上手く回せばいいという(しかし、その具体的なヴィジョンはベーシックインカムくらいしか示されない)。
一方で、派遣問題や格差問題など〈日本の流動化は、基本的にはグローバル経済の要請に基づくものだ〉から政治的に働きかけるのは的外れに見えるとうっちゃり、加藤智大が秋葉原の事件を起こしたのは〈経済的問題よりもむしろ心理的問題です〉と断言して、サブカルチャーが実存的に「人を救う」意味を考えていきたいと結論するのである。
そおかあ? 加藤がトヨタのハケンで荒んでいたっていう経済的問題はでかいだろう、どう考えても、と思うわけだが、経済的問題と心理的問題は切り離して考えるべきで、自分が問題にしたいのは後者だと東は繰り返しいっているので、このあたりの大雑把さには目をつむるのが望まれる読者像なのだろうし、大塚も最後、次のような結論を述べる。
〈たぶんもっと奥深い、彼(加藤のこと──引用者註)の実存の不安があって、その不安の何パーセントかは派遣労働者による不安定さっていう社会システムがもたらしたものかもしれない。それから、何パーセントは若者の性欲の問題だったのかもしれない。でも残った部分に関して、なにが引き受けてきたのかと考えれば、少なくとも近代からこっち側に限ったって、近代小説や近代文学や、さまざまな思想みたいなものがずっと担ってきているわけだから。そこを復興するしかない〉
何となく歩み寄ったように見えなくもないが、これも大塚が繰り返してきた主張の反復にすぎず、ふたりの意見は結局、最後まですり合わされない。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080926/171756/?P=2
栗原裕一郎さんの書評。評者の読了時間は「2時間00分」。厳しめの意見です。
『リアルのゆくえ』は読んでいないのでわかりませんが、
『波状言論S改―社会学・メタゲーム・自由』
『限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学』
『情報環境論集―東浩紀コレクションS』
『批評の精神分析 東浩紀コレクションD』などの対談集は、
とても面白く読みました。
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◇ 『アキハバラ発<00年代>への問い』 - 【B面】犬にかぶらせろ!
秋葉原通り魔事件について、短めの原稿を書きました。
テーマは、リアルタイムに近づく劇場型犯罪のメディア環境。
切り裂きジャック事件がイラストで事件が再現されるという報道が始まり(タブロイド紙の原形を作った)、9.11辺りを期に、事件の映像は素人のカメラや防犯カメラ映像をによって事後的に再生される時代になった。
今回の秋葉原通り魔事件を劇場型犯罪としてみた場合、あらかじめカメラが待ち受けている状況に限りなく近かった。そして、リアルタイム犯罪にみんなでコメントを付け合う環境まであと一歩みたいな。
http://d.hatena.ne.jp/gotanda6/20080929/iwanami
◇ 大澤真幸『アキハバラ発 <00年代>への問い』 - Economics Lovers Live
以下、編者の大澤真幸氏の論説「世界の中心で神を呼ぶー秋葉原事件をめぐってー」を中心にみておく(ただし経済問題にかかわるところを中心に)。
http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20080930#p4
“これだけの面子”は、“大澤真幸、森達也、東浩紀、平野啓一郎、本田由紀、内田隆三、斉藤環、
佐藤俊樹、吉岡忍、芹沢俊介、浅野智彦、土井隆義、中西新太郎、和田伸一郎、竹信三恵子、
濱野智史、伊藤剛、岡田利規、速水健朗、永井均、湯浅誠、雨宮処凜”。
確かにすごい執筆陣です。
※追記:『アキハバラ発<00年代>への問い』を問うた田中秀臣さんの長文ですが、消去されてしまったようです。
大澤真幸
個別の出来事が個別の出来事以上のものになることがある.直接には少数の人がかかわっただけの特異な出来事が,その特異性を維持したまま,その出来事が属する〈現在〉の全体を圧縮して代表することがある.日本の戦後史から例をとれば,連合赤軍事件がそのような出来事だったし,オウム真理教事件もそうであった.
2008年6月8日の日曜日に,25歳の青年Kは,東京の秋葉原で,17人を次々と殺傷した.Kは,歩行者天国にトラックで突進し,すぐにトラックを降り,ダガーナイフを用いて,出会った人を無差別に刺したのだ.この事件もまた,おそらく,出来事以上の出来事,〈現在〉の全体を写し取る出来事のひとつになることだろう.
(中略)
秋葉原のこの事件のような「出来事以上の出来事」に立ち会った者は,そこに影を落としている〈現在〉とは何かを自覚にもたらし,その〈現在〉の輪郭を明確にすることを,まさにその〈現在〉の同時代人としての務めとすべきではないだろうか.この「出来事以上の出来事」が何であるかを,それがなぜ〈現在〉性を映し出すほどの共感や反感をもたらしているのかを,できうる限り対自化することは,〈現在〉の同時代人の――少しばかり大げさに言えば――人類に対する,あるいは歴史に対する義務である.
(本書「はじめに」より)
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0220470/top.html
◇ 〈承認〉を渇望する時代の中で ………… 大澤真幸,平野啓一郎,本田由紀 - 岩波書店
凡庸な不幸と「裏返しのセカイ系」
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0220470/js/another01.html
I:真夏の秋葉原を歩いて、
ここには本質など何もないと気づいた(森達也)
「排除」のベルトコンベアとしての派遣労働(竹信三恵子)
孤独ということ—秋葉原事件を親子関係から考える(芹沢俊介)
若者を匿名化する再帰的コミュニケーション(斎藤環)
街路への権利を殺人者としてではなく
民衆として要求しなければならない(和田伸一郎)
コラム
追い詰められた末の怒りはどこへ向かうのか(雨宮処凛)
容疑者と生活困窮者の間(湯浅誠)
II:インタビュー
「私的に公的であること」から
言論の場を再構築する(東浩紀)
存在論的な不安からの逃走(土井隆義)
—不本意な自分といかに向き合うか—
事件を語る現代—解釈と解釈ゲームの交錯から(佐藤俊樹)
無差別の害意とは何か(中西新太郎)
極端現象か、場所の不安なのか(内田隆三)
—秋葉原殺傷事件の社会学的前提を考える—
コラム
劇場型犯罪の果て(速水健朗)
主客再逆転の秘義(永井均)
III:世界の中心で神を呼ぶ—秋葉原事件をめぐって(大澤真幸)
事件を「小さな物語」に封じ込めてはならない(吉岡忍)
なぜKは「2ちゃんねる」ではなく「Mega‐View」に書き込んだのか?(濱野智史)
—2000年代のネット文化の変遷と臨界点をめぐって—
孤独であることの二つの位相(浅野智彦)
コラム
この20年で私たちが学んだこと(伊藤剛)
〈この手の事件〉のたび私が思う漠然としたこと(岡田利規)
IV:◎座談会
〈承認〉を渇望する時代の中で大澤真幸、平野啓一郎、本田由紀