Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』はいま?

オバマ祈願 - i-morley

オバマ政権が誕生した場合を考えて話しています。

http://i-morley.com/blog/2008/11/post_18.html


>>>再々録:2004年12月2日のメモから

浅田 もちろんそれはアメリカだけの話ではない。

バラード そう、ケネディ暗殺は六〇年代以後の世界を

生み出す触媒だったとさえ言えるかもしれない。TV戦

争としてのヴェトナム、六八年、ポップカルチャー……。

すべてはもはやメディア・ランドスケープの中にある。

そこにはエモーションはなく、センセーションがすべて

だ。そして、それは速やかに飽和に向かう。

浅田 差異の飽和点における無差異=無関心(インディ

ファレンス)に。

バラード それは最近のことのように見えるが、実は六

〇年代に始まっていたことだと思うね。

(中公文庫『「歴史の終わり」を超えて』浅田彰 より

         第六章 J・G・バラードとの対話 

          ※初出『03』一九九一年五月号)



「いまここ」を準備したのは「かつてそこ」であり、

「やがてどこか」を準備するのは「いまここ」である

ことに、疑いの余地はありません。


たとえば、コップに一杯の水を汲むとします。

それを等しい大きさの次のコップに注ぎます。

それを等しい大きさの次の次のコップに注ぎます。

それを等しい大きさの次の次の……コップに注ぎます。

この無限の連鎖が時代──つまりは歴史

を作り出している、と考えてみます。

しかし、よほどうまく「水のリレー」を行わないと、

水は少しずつ失われていくでしょう。


それを防ぐには、

どこかで水を汲み足し、

より容積の大きなコップを

手に入れなくてはなりません。


では誰が?

それを?


1.「かつてそこ」の人

2.「いまここ」の人

3.「やがてどこか」の人


「いまここ」の人々は、

とてつもなく鈍感なのかもしれない。

そんな気がしてなりません。

(もちろん自戒も含めて)

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070211#p10