Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

「行為としての写真」とか「写真行為」とか

「行為としての写真」とか、「写真行為」とかいう言い回しを好む方も多いのですが、
私自身は、この言葉をほとんど価値のないものだと思っています。
結局は表現されたものがすべてです。
その行為=アクションが鑑賞者にダイレクトに働きかけ、
ある経験として何らかの感覚をもたらさないかぎり、
その行為にさしたる意味はありません。少なくとも鑑賞者にとってはそうです。
だから、写真を使ったオーソドックスな表現の場合は、
表現主体が「行為」「行為」といくら言い募ろうとも、
それは単なる自己満足に陥っていることがほとんどです。
ほぼ自己肯定のためのスローガンとして、
「写真行為」というふうな言葉が利用されているにすぎません。
これは「写真行為」なんです。わかるだろ? とか言われても、
私にはさっぱり何のことやらです。いや、それは大げさでした。
キモ痴話、じゃなかった、気持ちはわからなくもないのですが。。。


それに、「行為」=「作品制作のための活動」だとすれば、
そんなことは当たり前のことですし、とりたてて発言すべきことではないでしょう。
写真村の外の人々に聞かれたら失笑を買うだけだと思います。
写真家同士で、会ったときにちょこちょこと意見を交換するだけで十分です。


また、いくら「写真行為」なるものを積み重ねてみても、結果がすべてなので、
本人以外の他者にとって、その行為自体には、たいした価値はないでしょう。
キャラを立てるという、いぎたない手段もなくはないのですが。。。

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070315#p3