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福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

大澤真幸『不可能性の時代』(岩波新書)より村上春樹@全共闘世代について(+見田宗介『まなざしの地獄』)

 虚構の時代を代表する小説家をひとり挙げるとすれば、村上春樹こそ相応しい。村上の最初の長編小説『風の歌を聴け』(講談社)が発表されたのは、一九七九年のことである。[略]
 村上の三番目の長編小説『羊をめぐる冒険』(同、一九八二)は、高澤秀次の解釈では、三島由紀夫の『夏子の冒険』(朝日新聞社、一九五一)の「書き換え」である(高澤『吉本隆明──1945-2007』)。前章で述べたように、三島の自殺こそ、理想の時代の行き詰まりに対する、最も先鋭な行動である。このことを考慮すると、三島と村上のこうした繋がりは、実に暗示的である。
[略]
 村上春樹の『羊をめぐる冒険』は、「1970/11/25」というタイトルの章から始まる。これは三島が自決した日にあたる。冒頭で、この小説は、三島事件に「我々にとってどうでもいいこと」としてのみ言及している。無論、それは「どうでもいいこと」ではないからこそ言及されるのである。[略]「我々はおだやかな、引き伸ばされた袋小路の中にいた」という表現が示唆するように、『羊をめぐる冒険』は、冒険の──理想主義的なユートピアの──不可能性をめぐる冒険である。[略]
 要するに、村上の『羊をめぐる冒険』は、三島から直接にバトンを受け取るように小説を書き、三島の作品の中に孕まれていた可能性を徹底させることで、理想から虚構への移行を果たしているのだ。同じことは、三島のような「右翼」の文学者との関係だけではなく、「左翼」の文学者との関係においても認めることができる。
 『羊をめぐる冒険』よりも前の村上の長編小説『一九七三年のピンボール』(講談社、一九八〇)は、大江健三郎の『万延元年のフットボール』(講談社)のパロディである。一九六七年に書かれた『万延元年のフットボール』は、複雑な物語だが、簡単に言ってしまえば、挫折した六〇年安保闘争を、土俗的な雰囲気が漂う四国の山奥で、百年前の「伝説」を範型にして反復し、再現することが主眼になっている。ここで、すでに革命的な理想を維持することの困難が示唆されている。第一に、運動を賦活するためには、近代を否定する土俗への回帰を必要としている。第二に、革命的行動は、半ば伝説と化した過去の歴史(≒虚構)を媒介にした暴動としてのみ──しかも「フットボール」という遊び=虚構の中で──可能になっている。
 これを受けて書かれたのが、『一九七三年のピンボール』である。一九七三年は、連合赤軍事件のあった年の翌年にあたる。[略]「ピンボール・マシンの獲得」が、この小説の中での、目指されている「理想」だが、もちろん、これは、実にくだらないことである。このようにくだらないことをあえて理想の位置にまつりあげることで、したがって、これを日本や世界に共産主義革命をもたらすといった「重要な理想」と等価なものとして並べることで、(重要な)理想を相対化し、その幻想性を暴くことが可能になる。
 三島/大江から村上へと繋がれるこうした関係を概観したときに、導かれてくる仮説は、次のようなものである。理想の時代から虚構の時代への転換は単純に前者を拒絶し、否定することによってではなく、前者を駆動させることを通じてこそもたらされていること、これである。[略]

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>>>junk words(mixiの記述 2004-2005年から)

 それは七十八台のピンボール・マシーンが電気を吸い込み、そしてスコア・ボードに何千個というゼロを叩き出す音だった。音が収まると、あとには蜂の群れのようなブーンという鈍い電気音だけが残った。そして倉庫は七十八台のピンボール・マシーンの束の間の生に満ちた。一台一台がフィールドに様々な原色の光を点滅させ、ボードに精いっぱいのそれぞれの夢を描き出していた。(中略)

 僕はピンボールの列を抜けて階段を上がり、レバー・スイッチを切った。まるで空気が抜けるようにピンボールの電気が消え、完全な沈黙と眠りがあたりを被った。再び倉庫を横切り、階段を上がり、電灯のスイッチを切って扉を閉めるまでの長い時間、僕は後を振り向かなかった。

 一度も振り向かなかった。
講談社文庫『1973年のピンボール村上春樹 −− 22章より)

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090212#p2


◇ 『中平卓馬 来たるべき写真家』(KAWADE道の手帖
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http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309740249
108〜109ページ参照(足立正生×中平卓馬森山大道×中平卓馬のあいだ)。


◇ 『不可能性の時代』 - 真面目なふざけ、適度な過剰
http://d.hatena.ne.jp/K416/20080621/1214058854


大澤真幸『不可能性の時代』 - らいたーずのーと
http://d.hatena.ne.jp/SuzuTamaki/20080522/1211421607


◇ 煮詰まる現代、でもそこまで言う?〜『不可能性の時代』 大澤真幸著(評:後藤次美)- 日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080613/161963/


◇ 不可能性の時代 - 岩波新書

……われわれは、この暴力的な「現実」への逃避がもたらす閉塞の有り処を、「理想の時代/虚構の時代/不可能性の時代」という(日本の)戦後史の三区分を経由しながら探り当てた。この閉塞に対して、われわれは、どのように対抗することができるのだろうか? 不毛な破壊(の擬制)に身を委ねることなく、この閉塞を克服することができるのだろうか?
(本文より)


■内容紹介
 「現実から逃避」するのではなく、むしろ、激しく、時には破壊的でもある「現実へと逃避」する者たち―。彼らは一体何を求めているのか。戦後の「理想の時代」から、1970年代以降の「虚構の時代」を経て、1995年を境に迎えた特異な時代を、戦後精神史の中に位置づけ、息苦しい閉塞感からの打開の可能性を模索していく。「不可能性」に対峙するには、どのような方法が求められるのか。

 生きがたい現実に対し、真摯に希望を探り続けて絶大な支持を集める大澤社会学、最新の地平。


■著者からのメッセージ
 1995年に一連のオウム真理教事件が起き、また発覚した直後に、私は、この事件を社会学的に分析した『虚構の時代の果て』(ちくま新書ちくま学芸文庫より近刊)を執筆した。その際、事件を、(日本の)戦後の精神史の中に位置づけようと試みた。私は、見田宗介先生のアイデアに触発されながら、戦後の精神史は、「理想の時代」から「虚構の時代」へと転換してきており、オウム真理教事件は、「虚構の時代」の限界・終焉を印づける出来事ではないか、と考えたのであった。本書は、前著の中では暗示的・消極的にしか語られていなかった「虚構の時代の後」が、つまり現在が、どのような時代なのかを、積極的に記述し、説明する試みである。

 ミネルヴァのふくろうは夕暮れに鳴くという。だが、ふくろうを出来事が進行している渦中に、昼間のうちに鳴かすことはできないだろうか。そもそも昼間のうちに鳴くことができないのならば、ふくろうの存在など何であろうか。さらに言おう。昼間はほんとうは、夕暮れのふくろうを一種のユートピア的な期待のようなものとして最初から胚胎させているはずではないか。それならば、先取りされている夕暮れの視座を昼間のうちに占め、そこから昼間を捉え、鳴くことが十分に可能なはずではないか。こういう思いから、私は、本書を執筆した。

(「あとがき」より)

http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0804/sin_k405.html


>>>Haruki Murakami@Jerusalem / Kenzaburo Oe@Beijing
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090217#p11


>>>Paul Schrader - Mishima: A Life In Four Chapters
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20081101#p9


>>>「アート・アクティヴィズム」についての議論@「現場」研究会(2009年2月21日)
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090227#p5

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見田宗介『まなざしの地獄』河出書房新社
http://www.amazon.co.jp/dp/4309244580
http://www.bk1.jp/product/03056639


◇ まなざしの地獄 - 河出書房新社

日本中を震撼させた連続射殺事件を手がかりに、60〜70年代の日本社会の階級構造と、それを支える個人の生の実存的意味を浮き彫りにした名論考を復刊。最近の事件を考える上でも示唆に富む現代社会論必携の書。解説・大澤真幸

http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309244587


見田宗介「まなざしの地獄」 - キリンが逆立ちしたピアス
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20081113/1226586508


>>>『去年の秋、四つの都市で同じ拳銃を使った四つの殺人事件があった。今年の春、十九歳の少年が逮捕された。彼は連続射殺魔とよばれた。』
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080803#p2
森山大道『北海道』(Daido Moriyama: Hokkaido)は近年の森山さんの写真集のなかでは、
もっとも再考すべき要素が多く含まれている本だと思いましたが、
それでもなお私にとってはこちらの映画のほうが刺激的です。


※過去の「秋葉原事件」関連
http://d.hatena.ne.jp/n-291/searchdiary?word=%20%BD%A9%CD%D5%B8%B6%20%BB%F6%B7%EF