Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

鈴城雅文さんのテキスト@旧ガレリアQウェブサイト

『フザケタ評論家タチノ国で』
             鈴城 雅文

 写真の元気がない。その元気を取り戻す契機としての、「報道写真の逆襲」なのだと理解している。
 なるほど現今の写真は、突出が必要なのに、閉じこもりがちだ。閉じこもるなら覚悟を決めて、もっと
徹底して閉じこもれば、ついには足元を踏み抜いて別の世界への通路が、という希望があってもよさそう
なのだが・・・・。要するに中途半端なのだ。小ぢんまりと、仲良く。どこまでも微温的に。
 不振の原因は先ず写真家にあるとして、パラサイト評論家たちだって同罪だ。昨年末に出版された本か
ら、一例を挙げる。
 《この「割レタ鏡タチノ国」では、あらゆる出来事はひとつまたひとつと生まれては消え、固定した意
味や枠組みは常に忘れ去られ、首尾一貫した構造はいつのまにか雲散霧消してしまう。だが、そのことを
嘆くよりも、砕け散った鏡のかけらを拾い集め、誰も目にしたことのないジグソー・パズルを少しずつ組
み上げていく愉しみを共有すべきだろう》

  嘘ばかりだ! 閉じこもりの根拠である「固定した意味や枠組み」は、陰湿な強度で壊れ難し、出合う
べき「首尾一貫した構造」は、いまだかつて現れた試しはないし、いまさら「砕け散った鏡のかけらを拾
い集め」ることは、耐え難い屈辱なのであって愉悦ではない。
 笑いついでのように、もうすこし付き合ってみる。
《いたずらに絶望することも、悪趣味な希望に身をまかせることもない。写真はポジティヴな装置であり
(略)、われわれはむしろ、写真そのものが内から発する欲望や感情に同調すべきなのだ》

 面倒くさいからホンヤクコンニャク(判りますよね、倉田さん?)のお世話になる。

 私ニハ真性ノ絶望ヤ希望ニ当事スル覚悟ガアリマセン。身ヲカワスタメノ「いたずらに」「悪趣味な」
トイウ修辞ナノデス。写真機デハナク写真ガ「装置」ダトイウデタラメガ、バレマセンヨウニ。ソシテマ
タドウカ写真ノ「内」トハ何カナドト、本当ハ考エタコトモナイ問イニ出合ウコトガアリマセンヨウニ。
写真ソノモノガ欲望ヤ感情ヲ発スルトイウ駄法螺ガ、ドウカドウカ見過ゴサレマスヨウニ。デナケレバ評
論家ノ家業ガ成リ立チマセン。
 もっとも書く機会に恵まれた写真評論家がそう書いて、写真家であれ評論家であれ誰かが、抗議したと
いう噂はいまだつとに聞くことがない。
つまり彼の願いは、めでたく叶っている?

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『25Feb./2000 夕方の記憶のために』

鈴城 雅文

ガレリアQという写真ギャラリィで「報道写真の逆襲」というシンポジュウムが開かれ、写真家の倉田精二
さん、毎日新聞社のスタッフである平島彰彦さん、佐藤泰則さん、高橋勝視さんと同席した。
〈現場〉を踏んできた四人のゲストの体験的発言に挟まると、評論家などという言葉の族はどうしたって肩
身が狭い。だから「そも報道写真なんて、存在しているのですか?」とひねくれた問いを発した。(Qのス
タッフがテープ起こす予定というから、顛末に関心があればそちらで確認して欲しい)。
報道写真というテーマのキィ・ワードが〈現場〉であったのは当然の成り行きとして、しかし〈現場〉への
ゲスト四人のそれぞれの関わり方の違いが興味深かった。とくに倉田さんとほかの三人のゲストの間の違い
は決定的に感じられた。
乱暴を承知で要約すれば、倉田さんに必須の〈個性〉が、スタッフにはむしろ無用なのだ。誤解のないよう
に注釈しておこう。この確認は価値/優劣をめぐっていない。ひとつの〈現場〉をめぐっての差異が、その
ように在るという現認である。
 (そもそも、倉田さんの〈個性〉をスタッフは否定していないし、スタッフの〈非/没−個性〉を倉田さ
んも批判していない。ただ同じように
〈現場〉を踏みながらも、そこにはそのような違いがあって、その違いが双方の写真の有り様を分岐してい
る)。
 新聞社では〈現場〉に派遣される人間を〈兵隊〉と呼ぶという。むろん個性的な〈兵隊〉というのは形容
矛盾だ。〈兵隊〉に要求されるのは過酷な正確さ(何に対して?)で、〈個性〉的であることはむしろ嫌わ
れる。だがその都度メディアとの契約で〈現場〉に赴く倉田さんには、「君でなければ撮れない写真」とい
う〈個性〉が過酷に要求されてきた。このような二つの過酷の、異と同への関心はいまも尽きない。
 スタッフには〈個人〉ではなく〈兵隊〉としての役割が、倉田さんには〈兵隊〉ではなく〈個人〉という
役割が求められてきた。すると倉田さんの立場は捻転するほかはない。〈個人〉が居てはいけないはずの
〈現場〉に、〈個人〉としてしか居ようのなかった人間の苦悶----ルビをふればドタバタ(失礼!)を、倉田
さんはじつに生き生きと語ってくれた。
 だが、と考える。〈個人〉を完璧に抹消した〈兵隊〉も、十全なる〈個人〉も、ともに虚構にほかならない。
先述のように役割としての
〈兵隊〉であり、役割としての〈個人〉なのだ。そのような役割をさしおいたどこかに、本当の自分の本当の
〈表現〉があるなどという馬鹿げた感傷とは、三人のスタッフも倉田さんも徹底して無縁だった。
 そのように確認できたときタイトルの「逆襲」が、誇大ではないとようやく確信した。つまり〈他者〉に浸
透されないところに〈私〉はなく、にもかかわらず〈純粋な私の表現〉という蒙昧に淫した写真がそれゆえに
跋扈する時代への、ささやかではあってもしたたかな「逆襲」がその夜の新宿にあった。
 得難い機会に感謝しなくてはならない。カメラこそ第一の他者であることをついに知らない者らに、この
「逆襲」が逆襲として認知される可能性はきわめて薄いとしても!

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Suzuki Masafumi
keep your spirit high

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http://74.125.153.132/search?q=cache:PT3K0pvMaLIJ:www.galeriaq.com/pages/cntnts2.html+%E9%88%B4%E5%9F%8E%E9%9B%85%E6%96%87&cd=81&hl=


◇ 「密度ある空気」のために  鈴城 雅文
http://www.3rddg.com/galeriaQ/past/seki_yoshihiko/s-text.html
ポーランドで亡くなった関美比古さん(http://www.3rddg.com/galeriaQ/past/seki_yoshihiko/)についての文書。

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◇ 割レタ鏡タチノ国デ 日本の世紀末写真 - 飯沢耕太郎/著 - Yahoo!ブックス

序論「割レタ鏡タチノ国」で
写真装置の発見-田村彰英山崎博
「オリジナル・プリント」の神話-服部冬樹・大坂寛
写真と現代美術-山中信夫
オブジエの小宇宙-今道子
風景へのアプローチ-柴田敏雄畠山直哉
「移動鏡」としての写真-港千尋・鈴木清
都市とその周縁-小林のりお・山根敏郎
“日本人”の原風景-橋口譲二
呼吸する光-佐藤時啓〔ほか〕

http://books.yahoo.co.jp/book_detail/AAK84558/
毎日新聞社より1999年9月発行。


>>>ある意見
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090724#p3