Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

「写真新世紀2006」 - Mort de Sardanapale

しかし、今回、私がこうした並列性の関係を一番強く感じたのは、実は、高木の作品でも、山田の作品でもなく、喜多村みかと渡邊有紀による、お互いを撮り合った写真の組み合わせ作品からなのですが、私は、この2人が(喜多村と渡邊が)作る、お互いが共有しあえるというような世界が大嫌いです。

何故なら、ここでは、お互いを撮り合うことで、他者だけでなく、自分すらも見ることが巧妙に回避されているからです。確かに、ここではお互いが「見る」立場である同時に、「見られる」立場であるのですが、しかし、ここでは互いが並列的で対等で等価な立場であるのを前提とし、一方が、一方的に「見る」立場になることが許されていません。
もちろん、この2人の視線のあり方を、従来的な「画家」と「モデル」という男性による一方的な視線に対するアンチ・テーゼと解釈することは可能です。しかし、ここでは、一方だけが、一方的に「見る」立場に転じえない為に、暗黙裡に、お互いが共有しあえる領域以上には決して踏み込まないという並列した関係で視線が展開していくだけという退屈さがあります。つまり、ここでは、視線が「見る」者と、「見られる」者とを、鏡面的にパターン化して並列して展開していくので、そこでは、視線が、他者だけでなく、自分の姿すらも捉えることが出来ないのです。
もちろん、将来的には、こうした関係が崩れていく可能性もあるでしょうが、私には、こうした「女の子的」な「共有し合える」という視線の世界には嫌悪しか覚えません。


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ところで、この「嫌悪」というのは、私の主観的な感想でしかないのかも知れませんが、驚くことに、この公募展の審査員の一人である飯沢耕太郎は、私が、ある種の「嫌悪」を見た。この喜多村と渡邊による互いを共有しあえるという世界を「気持す良い」と評しているのです。
驚くことに、この評論家は、この20代前半の2人の女性が互いを撮り合った写真から「時間」の経過を感じるとさえコメントしているのですが、私は、飯沢という人が、一体幾つなのかは知りませんが、多分、この人は、馬鹿な大人としか思えません。

何故なら、20代の女性が互いを撮り合った写真から「時間」の経過を感じるだけでなく。それを見て、「気持ち良い」などと評するというのは、どう考えても。飯沢がそこで見ているのは作品ではなく、自己のくだらないセンチメンタリズムでしかないからです。
飯沢が、そこで何を「気持ち良い」と感じているのかといえば、それは喜多村と渡邊による私小説的な世界に、自己の私小説的なセンチメンタリズムが気持ちよく投影することが出来るからでしかありません(でなければ、20代の女性が互いを撮り合った写真から、どう「時間」を感じとれると言うのでしょう)
しかも、ここで誇示されているのは、実は、作品ではなく。そこから「時間」の経過を感じとれることが出来るという飯沢の感性の方だという馬鹿らしさがあるのです。

しかし、こうした自己のくだらないセンチメンタリズムを気持ちよく反映させてくれるのに適した心地よい作品が、写真だけでなく、絵画の世界でも、席巻しているというのが、昨今の批評の事実でもあるのです。

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