Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

前川修さん(http://homepage1.nifty.com/osamumaekawa/)のはてなダイアリーよりフリードリッヒ・キットラー関連

◇ 媒体 - はてなStereo Diary

 キットラーのメディア概念は、その史的メディア学の企図の枠組みの中で明瞭な輪郭を得る。彼がメディア概念に関心を示すのは、この概念が従来とは少々異なるメディア史の境界を浮かび上がらせるからである。つまり、従来のメディア史において常套句となっている、三つの区分――アルファベットの発明、活版印刷の発明、コンピュータの発明――とは異なる区分をこの概念は可能にするのである。

 キットラーの区分は、アルファベット、アナログメディア(グラモフォン、シネマトグラフ)、デジタル技術となる。手書き文字や活字の時代は「象徴界」に結び付られていたのに対して、アナログメディア以降の技術は、「リアルなもの」の保管と加工と伝達を目的としている。言い換えれば、文字の時代においてはすでに象徴界の要素であるものが書き留められ、いわば記号の「自然」がそこでは重要であったのに対し、アナログメディアによって、象徴界の外にあるもの、つまり自然そのものが書き留められることになる。ちなみに、写真にもこのことは当てはまることは言うまでもない。

 キットラーのこうした区分、あるいはそれを組み立てとしたメディア学の試みのひとつの意図とは、解釈学的な精神科学をメディア史学と交差させることにある。もっと強く言うならば、これまで象徴界でもっぱら紡がれていた人文科学、その、意味と解釈を統御している当のメディアそのものについて考察し、メディアを通じてその硬直性を解除することにある。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20070205


◇ 媒体 - はてなStereo Diary

 彼の技術概念には、私たちの時間に対する関わり方が含まれている。流れゆく時間の不可逆性、それを操作可能にするのがこうした技術なのである。それは別に映像の記録可能性や録音可能な時代以後のことではない。文字と書物の時代においてすでに、象徴界の線状化された時間は、書物の頁状の文字を見れば明らかなように、すでに空間化を被り、反復可能で、置換可能となっていた。しかし、アナログ技術メディアの時代には、カオティックでもあるリアルなものの時間が保存可能になり、操作可能にもなる。技術的メディアによるデータの加工は、空間化を通じて時間的順序が移しかえられ、可逆的にもなるプロセスなのである。

 そしてディスクール分析の変容とともに、そこで用いられるメディア概念自体も変容させられる。メディアはデータの保存、伝達、加工を行う領野を構造化している。データがあり、それを伝達する担い手としてのメディアがあるわけではない。むしろある時代においてそもそもデータと見なされるものを予め形成している諸技術や諸制度の成すネットワーク、それが彼の言うメディアであり、書記システムの場所なのである。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20070206


◇ 逆回し - はてなStereo Diary

 連続的、継起的な時間の流れのなかでは、先ほどの盤上ゲームの場合のように「填められた場所と空の場所の並存」は与件ではない。それゆえ、流れゆく時間の秩序は不可逆的でありつづける。ここで登場するのがアルファベット文字である。それは「時系列に並んだ発話の連鎖の各要素に空間上の位置」を割り当てる技術であった、とキットラーは言う。もちろんそこには空所(Leerzeichen、スペースないしゼロ記号)が存在しなければならない。ここが線状化のみを指摘するマクルーハンとの違いである。

 キットラー特異点は、通常のメディア論でなされるグーテンベルクの銀河系以後/以前という区分を採らないことにある。彼は両手で持ち、次々と繰り広げる巻物からページに区切られた写本という形態への移行こそが切断面になると考える。読みの経験が連続的な秩序のもとから離れ、空間的に分割されたものへと移る。テクストのどの場所が指し示されているのかが明示可能になる構造、それが以後の印刷可能性において「ステレオタイプ」化されたのである。もちろん上記のことは印刷技術によって可能になった図版複製にもあてはまる。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20070209