Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

自虐どころかあらゆる「史観」を欠如させた、ぶざまな「ひとりよがり」だけが『IDIOCRACY』ばりに……

◇ 眼は脳の一部である…… - MINER LEAGUE

見ろ見ろと薦められてようやく『脳内ニューヨーク』を。
題名どおり、昔懐かしい「脳の映画」NY版、と呼んで差し支えあるまい。見ている間は気にも留めなかったが、原題のsynecdocheは「提喩・代喩」を意味する。「類で種を、また一部で全体を(またはその逆)表す比喩」なのだそうだ。

どうやら週刊誌では「ひとりよがり」などという言葉で批判されているらしいが、それはとんでもない言いがかりであり、お門違いだ。これほど滅私奉公的な映画も最近珍しい。そもそも「脳の映画」は、作家個人の外部に設けた厳密にアカデミックな理論に基づく設定を構築した上でドライヴするしかつくりようのないもので、そこでは独善はそれこそ「禁欲」せねばならない。だからそこが麗しくもあり、同時に弱点でもある。魅力的な「ひとりよがり」=ショットがない、というのはそういう意味だ。「脳の映画」全般の限界も、だからそこにあったにちがいない。
現代において映画がもし弱くなったとしたら、誰もがそのような魅力的な「ひとりよがり」をなす術を忘れてしまったせいではないだろうか。ほとんどいわゆる自虐史観的に忘れさせられた、とでもいうか。自虐どころかあらゆる「史観」を欠如させた、ぶざまな「ひとりよがり」だけが『26世紀青年』ばりに(見てないけど)そこらじゅうに溢れている。

http://blue.ap.teacup.com/himaraya/513.html


カイエ・デュ・シネマ・ジャポン編集委員会 編『進化する脳の映像―身体の映画から脳の映画へ』(勁草書房

ドゥルーズの説く「身体の映画から脳の映画へ」という問題系に沿って,最新の映画状況を分析する。現代フランスの若手代表A.デプレシャンやラース・フォン・トリアーら。

ラース・フォン・トリアー奇跡の海
アルノー・デプレシャン「そして僕は恋をする」
●パシカル・ボニーゼ「アンコール」
●カサヴェテスの希薄さに向けて
ジャン・ルノワールと複数の鍵

http://www.keisoshobo.co.jp/book/b25143.html
http://www.amazon.co.jp/dp/4326848472