Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

表現のリポジトリ - 仮想算術の世界

むろん、いまは「セミ・ラティス」などという「隠喩」は使えないし、使う意味もないですが、主題そのものは現在にも連続しているのだと思います。実際、僕の関心もまた、近代的で人工的なツリー構造が失速した後に、ある種の洗練されたセミ・ラティス構造(神話構造)が一部で実現しつつあるのだとして、ではそこでどんな表現が可能なのかということに向けられています。

ただ、その一方で、ツリー的なものへの敵意がネットではときに不必要に過剰に噴出する、というかツリー的なもの=トップダウン的なもの=権威的なものを見つけたらとりあえず叩いておくというのがネットのもっとも低コストの反応というところもあって、それが総じて見ればマイナスに作用している面もないではない。たとえば、くどいようですが、水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』は、そういう負の作用をネットで強く受けた本だと思います。むろん、漱石や一葉を国語教育で復活せよというこの本がネットでウケるわけがないのですが、その喧噪のなかでは、なぜ水村氏が明治期の文学を特権化するのかという肝心の問いが消えてしまう。

特に、漱石はその好例で、彼の小説は、言葉と現実をきっちり対応づけるためにいわゆる「言文一致文」を編み出し、近代日本語の基礎を築く一方で、そうした言葉を操っている自己自身をメタレベルから観察して、相対化するようなモメントも含んでいる(いわゆる「写生文」)。つまり、漱石の文章にはシンボリックなところとアレゴリカルなところ、言語の標準化を図ることとその人為性を暴き立てることが共存しているのであり、そこからは、何か国家的な言語体系を補強するような方向も生まれれば、逆にその権威の恣意性を示すチャンスも生まれる。言い換えれば、漱石という作家は、いわば近代日本語の「レポジトリ」(つまり、死者に場所を与え直すこと)のような存在なわけです。一面からすれば、漱石は安定したシンボルを操った作家に見える。実際、彼の文章は明快で、論理的です。けれども、他面からすれば、そのシンボルの安定性は、ちょうど『三四郎』に事細かに書き込まれているように(ちなみに僕は、水村氏が『三四郎』を論じた箇所はこの本の白眉だと思いますが)、さまざまな外来の知の「翻訳」とそれに伴う犠牲が多重に重なることによって成り立っている。

ともかく、漱石であれ、手塚であれ、日本の文化的表現は何らかの特殊な「レポジトリ」にこそ、ある種の多様な生成の可能性を見出そうとしてきた形跡があるわけです。そして、こういういささか特異な豊かさは、場合によってはときに「ツリー的」に見えるようなやり方であったとしても、守護し、継承していかなければならないのではないか。水村氏が漱石に立ち返り、大塚氏が手塚に立ち返るのは、いかにも保守的で時代錯誤的ですが、やはりそこには日本のこれまでの文化状況を踏まえての必然性がある。小説にせよ漫画にせよ、それらは特殊な言語的ないし視覚的基盤のうえで成立するものであって、それを「保守」するには特別な手続きが要る。シンボルとアレゴリーの交差というのは、そのアーキテクチャを豊かにするひとつの「知恵」のようなものです。漱石や手塚に返ることは、そういう知恵の伝承と繋がっている。そしてまた、僕自身も批評家として、シンボルとアレゴリーのキアスムが起こっている現場を捉えたいと思うわけです(ただし、アレゴリカルに意味が転移するというのは、いまのネットではむしろふつうなので(つまり、アレゴリーがシンボル化しているので)、だいぶ議論のパターンをいじらないといけない。

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福嶋亮大さんのブログより。


YouTube - 東浩紀ゼロアカ道場 やずなみチーム「福嶋亮大さんインタビュー」
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