Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090227#p5)

■「アート・アクティヴィズム」についての議論@「現場」研究会(2009年2月21日)
◇ 2月の現場板 - 現 場 板 [GEN! BA!! BAAA→→→NG!!!]

勉強会のテキストは、研究会内の掲示板で募集をしたところ、高祖岩三郎氏の「アートとアクティヴィズムのあいだ―あるいは新しい抵抗運動の領野について」(「VOL03」以文社 2008年掲載)に決定し、また、現在の社会状況を知る上で湯浅誠氏の『反貧困』(岩波新書 2008年)を副読本としました。

ディスカッションでは、若い世代からは妻有トリエンナーレなどなど、アート系イベントなどに自らが関わった体験をもとに掘り下げていく声が聞こえる一方で、大人世代からは、60年代、70年代当時の思想傾向に既視感を覚えるなど、まさに幅広い世代のメンバーによって成り立っている「現場」研ならではの意見が出ました。

http://unei.sblo.jp/archives/20090224-1.html


以下、kitz - 2さんのメモより抜粋&再構成



・アート・アクティヴィズムは、旧態依然たる左翼デモの在り方の手法次元での批判的乗り越えである。

・近代都市の成立とプロレタリアートによる労働運動の成立は同時。その後の都市の変容に運動手法がズレを生じ始めていた。

・ハードウエアとしての都市とソフトウエアとしての都市。現実としての都市とバーチャルな都市。都市の二重化への戦略。

・アクティヴィズムにおける「政治」概念の曖昧さ。

・高祖岩三郎が「アート」と「アクティヴィズム」という表現をしたのは適切だ。「と」という接続助詞は、両項が関係づけによって変動してゆく動態的関係の表現として受け取るべきではないか。

・既成の「アート」概念、もしくは、既成の「アート」批判を踏襲するアート・アクティヴィズムの安直さ。「アクティヴィズム」概念についても然り。

ベンヤミンの「暴力論」を読み返す必要はないか。非ロゴス的な本源的言語としての神話=イデオロギーに発する暴力と、神話の形象化としての芸術作品の本源的政治性(善悪の此岸)。かかる本源性を破砕する「神的暴力」(善悪の彼岸)としての芸術。――●●●くんのいうアートとは、この「神的暴力」なのではないか。それとも、ハイデガーのいう「裂け目」のことだろうか。

・アート・アクティヴィズムはアートの自律性に無配慮である。

・アートの自律性の根拠とされるアートの無用性(カント)は、汎用性の裏返しではないのか。

アプライド・アートとしてのアート・アクティヴィズム(アート・セラピーにおけるアートの道具化)

・アート・アクティヴィズムが「美術」、「芸術」という言葉ではなく「アート」を選んでいることにアートの汎化現象への配慮を読み取ることができるのではないか。

・「情動affect」に焦点化してアートを捉えるご都合主義的、ドゥルーズ-ハート的ロマン主義的発想の限界。

・批判されてきた「アート」は、モダニズムとしてのアートであり、閉鎖的自律性と自己指示的純粋性を金科玉条とするアートであった。アート・アクティヴィズムは、その批判を踏襲している。

・「きれいであってはならない」、「うまくあってはならない」、「ここちよくあってはならない」という太郎「三つのお約束」は、けっきょく「きれい」「うまい」、「ここちよい」ことを目指す古典的芸術観の反対物にすぎず、両者は補完する関係にある。その相互補完的全一体を如何に処理するのか。従来型のアート批判を無批判に踏まえた現在のアート・アクティヴィズムは、この点に関して無策である。

・「家族的類似」(ウィトゲンシュタイン)によってしか定義できないアートの現状、もしくは外延的拡張が限りなく内包を――サミュエル・ベケットの演劇のように――痩せ細らせてきたアヴァンギャルド系現代美術の在り方(モダニズムの極相)が、アートとアクティヴィズムを結びつける前提となっている。

・大衆=前衛(トニ・ネグリ)を求めるとして、しかし、それをスーパーヴァイザーとしての個人=前衛がリードし、場をしつらえることの矛盾。越後妻有アートトリエンナーレにおける北川フラム。

・アーティスト・ユニオンの新構想は、アートの自律から応用に至るグラデーションに配慮した分業論の提唱である。

・アートのなかのアクティヴィズム/アクティヴィズムのなかのアート

・行政による再開発の露払いとしての町おこしアート。体制/反体制構図の曖昧化の事例。

・政治の芸術化(古代的政治(和歌人としての天皇フランス革命期の政治的パフォーマンス、マヤ、アステカ、ナチス、「政治の美学化」(ベンヤミン)etc.)と芸術の政治化(プロレタリア美術、戦争美術、モニュメント、ワーグナーetc.)

・美術の内なる政治(制度としての美術、ジャンルのヒエラルキー、政治-制度的なコンフリクトの場としての画面etc.)と政治の内なる美術(プロパガンダ芸術、政治経済的文化政策etc.)

・「政治」と「芸術」という近代的分類概念以前の分類への回帰現象の一形態としてアート・アクティヴィズムを捉えることはできないか。

・体制反/体制という分類は単純にすぎるのではないか。体制派であるはずのキュレーターが、離職後に反体制的な活動をする例がみられる。

・体制の中核と周縁を分けて考えることはできないだろうか。国家に関していえば、その体制の実体は官僚組織であり、高級官僚は、わずかな事例を除いて反体制への寝返らないのではないか。

・文化リーダーの世襲制は近年において強化されたが、体制周縁部では世襲制(教師の子は教師といった)は弱化されたのではないか。それが、体制周縁部における体制/反体制という利害関係的、イデオロギー的な対抗構図を弱化している。

・日本社会におけるアート・アクティヴィズムの系譜(20年代アヴァンギャルド、プロレタリア戦争美術、帝国主義戦争美術、夜の会、ルポルタージュ絵画、赤瀬川原平「偽千円札事件」etc.)

・90年代との連続性。しかし、90年代における左翼敗退後のjusticeとcorrectnessにかかわる批判的主張は市民主義(学問的には社会学)によって担われていた。カルチュラル・スタディーズも市民主義のネコをかぶっていた。格差社会到来を機に左翼的な政治主義が舞い戻りつつあるのではないか。

・ロマンティクな政治主義が突出し事柄の経済的位相へのstrikingがみられない。

・しかし、実際の運動は、経済的要求and/or攻撃の場合も政治を介するほかないのではないか。

・愉快犯的左翼暴力主義について(e.g.駐在所の爆破)。

・現在、問題にされているアート・アクティヴィズムは60〜70年代の“旧-新左翼”の実体を欠いた演劇的simulacreであり、既視感がある。

・日本における「公共圏」の可能性。スピーチアクト(言行一致)を求められる西洋的「公共圏」において日本人はすべて「サバルタン」ではないか?

・マスコミにおけるタブーとしての民度の問題。

・民主主義に先立つ共和主義的発想の必要。共和制とは合意の政治であり、合意に至るプロセスの探求でもある(アナーキスト人類学!)。



VOL周辺の言説の可能性と問題点を検証。
今年の現場研(http://genbaken.com/)も面白くなりそうです。
以下、関連リンク。


◇ 『VOL』03号:特集「反資本主義/アート」、以文社より - ウラゲツ☆ブログ
http://urag.exblog.jp/7233115/


◇ 『VOL 03』萱野稔人 (著, 編集), 高祖岩三郎 (編集), 酒井隆史 (編集), 渋谷望 (編集), 白石嘉治 (編集), 田崎英明 (編集), 平沢剛 (編集), 松本潤一郎 (編集), 松本麻里 (編集), 矢部史郎 (編集), デヴィット・グレーバー (編集), ジム・フレミング (編集)
http://www.amazon.co.jp/dp/4753102637


◇ 芸術とマルチチュード - 幻想第一
http://d.hatena.ne.jp/Z99/20080330/1206885979
ネグリさんとデングリ対話@東京藝術大学*1での田中泯さんのエピソード。


◇ 戦争と日常と(文:大友良英)2003年3月26日 - Improvised Music from Japan / Yoshihide Otomo / Information in Japanese
http://www.japanimprov.com/yotomo/yotomoj/essays/senso.html
*2

◇ 「公共性」をめぐって H. アーレント『人間の条件』、J. ハーバーマス『公共性の構造転換』、石川啄木時代閉塞の現状』 - NULPTYX:石田英敬研究室
http://www.nulptyx.com/pub_publicness.html


稲葉振一郎『「公共性」論』(NTT出版
http://www.amazon.co.jp/dp/4757141807
http://www.bk1.jp/product/02965565
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20080304/p1


稲葉振一郎『「公共性」論』 - logical cypher scape
http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20080321/1206113816


◇ エディターシップの行方〜稲葉振一郎『「公共性」論』を読む。 - 【海難記】 Wrecked on the Sea
http://d.hatena.ne.jp/solar/20080502#p1


>>>稲葉振一郎さんの『モダンのクールダウン(片隅の啓蒙)』を再読
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20081222#p14


>>>リチャード セネット『公共性の喪失』(訳:北山克彦・高階悟 晶文社
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090225#p2

*1:http://d.hatena.ne.jp/n-291/searchdiary?word=%a5%cd%a5%b0%a5%ea%a4%b5%a4%f3%a4%c8%a5%c7%a5%f3%a5%b0%a5%ea%c2%d0%cf%c3

*2:(日本の)敗戦当夜、食事をする気力もなくなった男性は多くいた。しかし夕食をととのえない女性がいただろうか。他の日と同じく、女性は、食事をととのえた。この無言の姿勢の中に、平和運動の根がある。〔鶴見俊輔さんの言葉〕