Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090721#p3)

■「写真とは何か?」などという根源的な問いは、捏造された疑問符である。
蓮實重彦『表層批評宣言』 - 「石版!」

 「批評とは何か?」などという根源的な問いは、捏造された疑問符である、と筆者は言う。そしてそれは貧しい態度である、と。そのような根源的な問いを行う者は、その行為が「制度」としての批評の延命を促すことに無自覚で、それどころか「問う」ことが善意であるかのように振舞う。多くの場合、「問う」批評家は、まるで作品の深層に、読み取られるべき意味や真理があるかのようにも振舞う。批評が書かれることによって「隠された真理」が見出されるとき、批評は作品を固定化する。言葉が書かれることによって、書かれた対象となる言葉が奪われる。ここで批判にあがっている制度的な批評が行う「解釈」にはそのような暴力性がある(しかし、その暴力は無自覚に行使されてしまう)。

http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20090713/p1
mkさん(id:Geheimagent)さんのはてなダイアリーより。


このセンテンスを言い換えてみると、

「写真とは何か?」などという根源的な問いは、捏造された疑問符である、と筆者は言う。そしてそれは貧しい態度である、と。そのような根源的な問いを行う者は、その行為が「制度」としての写真の延命を促すことに無自覚で、それどころか「問う」ことが善意であるかのように振舞う。多くの場合、「問う」写真家は、まるで写真という概念の深層に、読み取られるべき意味や真理があるかのようにも振舞う。写真が撮られることによって「隠された真理」が見出されるとき、写真は現実を固定化する。写真が撮られることによって、撮られた対象となる現実が奪われる。ここで批判にあがっている制度的な写真が行う「解釈」にはそのような暴力性がある(しかし、その暴力は無自覚に行使されてしまう)。

ということになるのでしょうか。
ちょっと強引な転用かもしれません。
しかし少なくとも、「写真は写真である。」などというトートロジーを繰り返すことにしか帰結しないような、
「写真とは何か?」などという根源的な問いは、単なる捏造された疑問符でしょうし、
退嬰的なシステムを延命させるだけの典型的なマッチポンプだと思います。


>>>「行為としての写真」とか「写真行為」とか
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070315#p3