Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

M.M.Poloさんのはてなダイアリーより

◇ 骨董商は信用できないか - mmpoloの日記

 中島誠之助の「ニセモノ師たち」(講談社)を読んだ。骨董の世界のニセモノの数々の例と、それを作るニセモノ師、ニセモノを流通させる骨董商の世界を描いている。著者は「開運! なんでも鑑定団」の陶磁器の骨董品に関する名物鑑定士だ。「いい仕事をしてますね」が決め台詞。これはノンフィクションの世界。

http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20100311/1268255429


◇ 成金と相手の余裕の見分け方 - mmpoloの日記

再び、中島誠之助「ニセモノ師たち」(講談社)から役に立つエピソードを。

http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20100312/1268342259

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◇ 辛口美術コラム集「当世美術界事情II 1990-1999」 - mmpoloの日記

 安井収蔵「当世美術界事情II 1990-1999」(美術年鑑社)は安井が「新美術新聞」に1990年から1999年まで連載したコラムをまとめたもの。もう10〜20年も前になるし、コラムという時事性の強い性格から古くなった話も多い。しかし、著者の強い批判精神からまだまだ有効性が失われていないもの、読んで面白いもの、教えられるもの、要するに賞味期限の切れていないものが少なからず掲載されている。

 二科展の画集、出品目録には必ず「二科について」という一文が載っている。いまや創立当初の在野精神や実験的創造精神はツメの垢ほどもないが、その一文のなかに「…行動美術協会、二紀会などは二科会から派生した美術団体」と説明している。

 が、これには少々、異論のあるところだ。宮本三郎から直接聞かされたことだが「二科は30回展(1942年)で解散した。敗戦後、東郷らが、反対を押し切り、二科を名乗り、あまつさえ31回展(1946年)と称した。あれは東郷二科だ。ぼくや向井君(潤吉)らは二紀や行動を作ったわけだ。日展に参加するといいだして開いた口がふさがらなかった」と激しく怒っていたことを覚えている。

 (平成4年)2月22日、下関市立美術館で韓国現代美術展が開幕する。新潟、笠間、津を巡回する。一昨年秋、招待作家を決めるため、日本から3人の美術館長が、ソウル郊外、韓国国立現代美術館をたずねた。

 館長は早大卒、会津八一門下の知日派、李慶成(イ・ギョンソン)である。同国ではコンテンポラリー・アートが花盛り。「なぜ、現代美術なのか」との問いに、笑みをたたえた館長の口から「日本のおかげで、韓国では近代美術が欠落したから…」という言葉が返ってきた。日本側のひとりは「微笑の奥にある真実のもつ説得力に言葉を失った」と語っていた。

 例年のことながら新聞、テレビは芸術院会員、文化勲章を国をあげての一大事の如くに扱っている。発表を鵜のみ。マスコミの原点である批評精神は、ひとかけらもない。国家的栄誉とはいうが、黙っていては会員になれないし勲章も貰えない。政治家、役人、叙勲者すべてが百も承知のことである。

 かつて林武が「東郷(青児)の奴が来てねえ、会員(芸術院)になりたいなら3千万円用意しろと言ったが俺は断ったよ」と語ったことがある。美術界では常識の話。同じことが文学界にもあるらしい。朝日新聞の名物記者だった百目鬼恭三郎が「新聞を疑え」(講談社)の中で、つぎのように書いている。

 『……獅子文六久保田万太郎と同じ電車に乗り合わせたとき、雑談の末、久保田が急に声をひそめ「芸術院会員になりたくないか。その気があるなら、これこれの資金を用意してくれれば、まちがいなくしてあげるよ」といった、という話を獅子は随筆に書いている。……不思議にもマスコミは一片の批判もなしに、提灯もち報道をするばかりなのである、と』

http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20100316/1268688379


針生一郎が語る戦後美術概論の一端 - mmpoloの日記

 私は奈良について強い興味は持たなかったが、針生一郎の「奈良達雄論序説」に述べられている戦後美術概論の一端が面白かったのでここに紹介したい。

 わたしは1952年に美術批評に乗りだして以来、戦争末期に戦争と無関係な自画像や風景画ばかりならべて、抵抗の姿勢を示した〈新人画会〉のメンバーを中心とする〈自由美術〉が、公募団体展では唯一芸術運動の気風を保つとして親しくしてきた。ところが1963年、その〈自由美術〉から芸術派が運動派と離別する形で〈主体美術〉が分裂し、しかもわたしがもっとも信頼する麻生三郎、小野里利信、小山田二郎浜田知明らは、どちらにも残らずその前後に無所属となった。一方、わたしが上京以来〈夜の会〉などで影響を受けた岡本太郎は、 55年二科展に外部から有望な作家を大挙リクルートしたが、東郷青児支配の大勢は変わらないことに失望したのか、61年にはひとり二科会を退会した。こうして、あらゆる公募団体は芸術運動とは無縁で、生活上の必要から集まった同業組合か様式会社だから、わたしは今後一切見ないという原則を以来自分に課したのである。もっとも、わたしは「公募団体を憎んで人を憎まず」と冗談半分につけ加えて、公募団体所属でも注目する作家の個展・グループ展には、見に行く余地を残しておいた。

 ところが1960年代末、前衛芸術はミニマル・アートとコンセプチュアル・アートという、両極の袋小路に入って国際的にゆきづまり、日本ではイメージとオブジェといった西洋風二元論をこえて、物質と人間の感動的な出会いをそのまま作品にするという、在日の李禹煥の理論のもとに組織された〈もの派〉が、東野芳明の提唱した〈反芸術〉の小刻みな変化に対し、タブラ・ラサ(白紙還元、盤面一掃)の作用を及ぼした。もともとわたし自身は、動き、光、大地などを新しいメディアとして芸術概念を一変させようとする「反芸術」に批判的で、一方〈もの派〉には芸術本来の人工性と虚構性を無視して、日本の伝統芸術と同様に自然に同化しすぎるのを疑問としたが、両方が激突して「前衛の終焉」とよばれる事態がおこったことは認めざるをえなかった。その上1970年代はじめ、東京国立近代美術館が竹橋に開館した記念に招待されて、西ドイツ美術批評の長老ヴェルナー・ハフトマンが来日したとき、「今は芸術運動よりも、個別的な作家論に集中すべき時期だよ」とわたしに語ったのが深く印象に刻まれた。わたしも「退役批評家」などと自称して、新人作家の発見よりも、ハフトマンがクレー論を書きあげたように、既知の代表的作家の論考を深化する方が大事だと考え、画廊の個展・グループ展に一番疎遠になったのが、この時期である。もっとも、〈もの派〉の衝撃を受けて近代日本美術史を自己流に総括した上、人工性と虚構性の再建にむかったいわゆる〈ポストもの派〉の方がわたしの興味を惹き、李禹煥自身も評論を発表しなくなってから、むしろユニークな造形的才能で国際的な評価を得たので、わたしの画廊まわりも数年後には再開された。

(後略)

http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20090512/1242076606


◇ 美術展の審査員の特徴 - mmpoloの日記

 明大前にあるキッド・アイラック・ホールで世田谷美術館長の酒井忠康さんと無言館ならびに信濃デッサン館の館長窪島誠一郎さんの対談を聞いた。二人は同い年の67歳だという。なかなか面白い話だった。次は酒井さんの話で、美術賞の審査員としての癖のある画家たちのエピソード。

リー・ウーファン:自分と似た作品はすべて落とす。

横尾忠則:団体展に入賞する作品はすべて落とす。

堀内正和:シュールな絵はすべて合格させる。理由は、自分には描けないから。

前田常作曼陀羅図に似ていると、すべて合格させる。

野見山暁治:マチエールにこだわり、いちいち触るので、審査に時間がかかる。

http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20100124/1264262230


◇ 長野県飯田市の美術意識 - mmpoloの日記

 飯田市出身の有名画家はまず菱田春草、オノサト・トシノブ、仲村進、滝沢具幸あたりだろう。滝沢は日本画家、創画会の会員で現在飯田市美術博物館の館長だ。創画会は秋野不矩や上村松篁らが設立した由緒ある日本画の団体だ。

 その伝統ある創画会の会員である滝沢具幸が飯田市民に質問されたという。先生はどこに出展しているのですか? 創画会です。早く日展に入選できるといいですねえ。滝沢具幸さん苦笑。

 長野県飯田市では日展に入選すると新聞に掲載される。県展に入選しても掲載されるのだ。評価の高い創画会ですら、県展以下の位置づけに過ぎない。これが飯田市の美術の基準なのだ。

http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20071120/1195502699

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◇ 彫刻家内藤伸 - mmpoloの日記

 ある時島根県の内藤家に東郷青児が訪ねてきた。伸が不在だったので一彦さんに菓子折を渡し、駅前の旅館に滞在していると伝えてくれと言った。帰宅した伸が菓子折を開けると札束が入っていて、一彦さんはそれを東郷に返しに行かされた。

 この時すでに帝国美術院は日本芸術院となっていたが、会員は定員制で終身会員だったので、誰かが亡くなった時だけ会員の推薦で新しい会員が選ばれた。東郷は会員に選ばれたくて島根県まで札束を抱えて出かけて行ったのだ。

http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20061109/1163023132


芸術院会員になるのは大変だ - mmpoloの日記

 日本芸術院会員は定員制で、会員が亡くならないと補充はない。新しい会員は現会員の推薦により選ばれる。それで会員が亡くなると候補者たちは現金を持って走り回ることになるらしい。

 そのことを彫刻家TWさんに話すと、おそらく1,000万円くらいの現金を届けて歩くのだろうという。芸術家にそんな大金はないので(平山郁夫は別=mmpolo注)、どこからか相当の借金をしてばらまくらしい。そんなことをするのも、芸術院会員に選ばれれば名誉のほかにそれなりの見返りが期待できるからだろう。少し話は違うが、以前私の知っている方が伊勢丹デパートから福沢一郎の薔薇の絵を買った。6Fくらいの大きさで42万円だったという。数年してその絵が320万円になっていた。福沢一郎が文化勲章を受章したのだ。芸術院会員に選ばれれば同じ様なことが期待できるだろう。

 さて、TWさんによると、借金してお金をばらまいた某美術家が期待に反して芸術院会員に選ばれなかった。借金だけが残り、彼は結局自殺をしてしまった。

奥村欣央 2008/07/13 07:29
上野の団体展も会友から会員になるのは先輩画家の絵を田舎帰って何枚も売りさばかないと会員にしてくれないとか、汚い世界ですよ、


unknownmelodies 2008/07/17 01:06
>うまくすれば数千万円の無税の現金収入があるのだろうか

国税よ、動いてくれ。

http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20080713/1215901193

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>>>画壇(団体系)の裏・闇・カラク
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080716#p4


>>>訃報
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20091202#p6


>>>美術公募団体 関連メモ
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20100311#p6


※過去の「画壇」関連
http://d.hatena.ne.jp/n-291/searchdiary?word=%B2%E8%C3%C5