Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

半田真規さんの個展@gallery αMとサイディング(外装材)

◇「変成態―リアルな現代の物質性」Vol.8 半田真規@gallery αM
開催中〜3月27日(土)
http://www.musabi.ac.jp/gallery/news.php
たまたま初日に見ました(ただし、オープニングトークは未聴)。
2008年に児玉画廊(東京)で開催された個展「August」*1も印象的でしたが、
今回は、私が以前から興味を持っている問題とも相通じる内容の展示でした。
ただ、何をやっているのか良くわからない人や「ああ、なるほど、現代美術ですね」と
良く見もせずに素通りする人も多くなってしまうのかな*2、とも思いました。
展示空間というフレームの中に、さらにフレーム(もう少しわかりやすい)を設けてあげないと、
普通の人(こういう物言いは問題だと思いますが)には
気付きを与えることが難しくなってくるのかなと。
ただ、見たという経験自体はプリセットされるので、
これは私が写真というメディウムを使うにあたって考えていることでもありますが、
それがのちにアンカーとして機能すれば問題はないのかもしれません。
トリガーは何になるのかという問題は残るにせよ。

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◇ サイディングと藤本壮介 / サイディング sweethome 2 - ベルリン・レター・パート 2

サイディングの美学的特徴は、「〜調」という部分にある。どれをとっても、実際は木毛セメント板なのだ。

無数にある(ニチハだけでも数百はあるのではないか..?)バリエーションは、すべて厚みと表層の操作によってつくられる。

しかも、厚みはどのような表層をつくりたいかで決定されるから(陰影の深いものは、厚みが必要。たとえば石積み調は35mmだが、コンクリート打ち放し調は16mmでできる。)、事実上形態は表層によって決定される。

窯業系サイディングが建築家たちに避けられる理由はここにある。表層のみ。それは、あくまでリアルではない、模倣だ、という意識。たとえば、新建築住宅特集を開いてみよう。毎号ありとあらゆる住宅が載っているが、サイディングを使った住宅を見る事は極めて稀だ。


しかし建築プロパーにとっては皮肉な事に、新築戸建住宅の外装材における、窯業系サイディングの市場シェアは70%を越えると言う。なぜか、なぜか。多くのハウスメーカーは半自動的にサイディングを使う。設計施工を行う工務店もそうだ。なぜか。

第一の理由。価格。第二の理由。性能。第三の理由。ヴァリエーション。

いくつかのバリエーションをぼんやりと見ていると、そのひな形が浮かび上がる。コンクリート調の原型が、世界の安藤であることは明らかだ。ただし割り付けのプロポーションは全く違うが。ライト、前川、ツントーetc..サイディングの背景には、近現代の巨匠達の姿が透けて見える...。

サイディングとはすなわち模様だ。サイディングのひな形となる建築の共通項は、模様へと回収されるデザインであることだ。市松模様。細かな縦のストライプ。ピーコーン。こういったもの。あるいは、模様へと回収されるデザインが、卓越した(と考えられる)建築の必要条件なのだろうか?


サイディングには、人々の欲望が映し込まれている。「我が家に、あの意匠をとりいれたい」。これは、否定されるべき感情ではないと思う。

一方で街並の統一という考え方がある。サイディングの前では塵に同じ。

http://d.hatena.ne.jp/masaaki_iwamoto/20091001
岩元真明さんはてなダイアリーより。


◇ サイディングと審美的判断 sweethome 3 - ベルリン・レター・パート 2

サイディング最大手メーカーであるニチハは「模倣の時代は終わった」というフレーズのもと、何かのコピーではないオリジナルの意匠を施したシリーズ「風光」を発表した*2。これは、サイディングが新しいステージへ向かうきっかけとなるに違いない。しかし、これをアトリエ建築家たちが喜んで使いはじめるかというと、そうでもない気がする。風光はデザインされすぎているのではないだろうか?


建築家は自身の審美的判断をメーカーに委ねたくない。メーカーがよりデザインを創意すればするほど、審美的決定者ならんとする建築家がサイディングから離れていくという矛盾が発生するのではないか。周到にデザインされたサイディングを外装に用いることは、建物の一番人目に触れる部分の美学がメーカーにコントロールされることを意味するからである。もちろん数ある製品のうちから、何か一つを選び取ることは審美的判断である。しかし、カタログにあまりにも多くのバリエーションがある場合、建築家は戸惑う。果たしてカタログから何かを選ぶことがデザインなのだろうか、と。


工業化とは規格やモジュールを共通化させる運動と並行して興った。規格化によって近代以前のようにクラフトマンが自由にものを造る状況は終わりをつげ、定められたモジュールや仕様に従って生産管理された製品が支配的となった。

一方ハウスメーカーや建築家なしの工務店にとっては、サイディングの多様化は喜ばしい発展だ。彼らは建築家ほどに審美的判断の主体者であることにこだわらないからである。必要な性能を確保しつつもクライアントの趣味や時代の空気に柔軟にあわせることができるサイディングは、彼らにとって魅力的な素材なのである。特に、商品としての住宅に差異を与えることができるという点において。

ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」において、写真のような複製技術の登場によって絵画芸術のもっていた真正性や一回性-彼がアウラとよぶもの-が失われたと論じた。模倣主体のサイディングでは、その柄のもつアウラもまた決定的に失われていく。

それでは、サイディングによって建築家が自身の作品性を確立することは不可能なのだろうか。上述の景観条例の事例において、サイディングの利用は絵画をまねて芸術的な写真をつくるようなものである。これは旧来の価値観から脱し切れていない無意識の反動であり、多木浩二が「アウラの捏造*4」とよぶものと限りなく近い。

写真の誕生において絵画的アウラが凋落したとき、ベンヤミンが見いだした可能性はダダイズムの屑のコラージュである。多木はこれを「作品からアウラを消滅させ、創作の手段を用いながらも、作品に複製の烙印を押す」手法であり、「使用状況を引き抜くか、廃棄処分にされた物」の方法と解説する。

コールハースは自身が「ジャンクスペース」*6で描写したような、複製品・模造品・大量消費的建材が支配的な現代の状況を受け入れ、そこから現代的表現を生み出していると言えるだろう。完全にノスタルジーを廃するこのような手法は時にシニカルに見えるかもしれないが、彼独特の倫理観に発する美学なのだと思う。

http://d.hatena.ne.jp/masaaki_iwamoto/20100111/1263220243
同じく、岩元真明さんのはてなダイアリーより。


国立市建築家自邸。 sweethome 1 - ベルリン・レター・パート 2

2ヶ月ほど前の住宅特集で、青木淳さんとスキーマ建築計画の対談があって、そこではたとえば、「いかにもかっこわるい」「システムキッチン」を残すというリノベーション手法について語られていたのですが、少し似ているかもしれません。

レディメイド」という方法で分析することもできるでしょうが*1、それよりも、リアリズムをフィクショナルに再構成する、という方が近い気がします。


なんだか抽象的な話になってきましたが、要点はかんたん。これまでは、「建築家の家」が「庶民の家」を啓蒙する、影響を与える、という流れが主流でした。たとえば、ニチハの窯業系サイディングのラインナップを見るとわかりやすい。ライト風石張り調、安藤忠雄風コンクリート打放調、なんでもアリなのです。

しかし、近年、「庶民の家」が「建築家の家」に影響を与えるという、逆の流れが進行しはじめているのかもしれません。

http://d.hatena.ne.jp/masaaki_iwamoto/20090705/1246778686
同上。

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半田真規個展+シンポジウム - ART iT アートイット

天野一夫キュレーターによる年間企画展『変成態—リアルな現代の物質性』の最終回として、galleryαMでは現在、半田真規が個展を開催中。住宅外壁材で展示室中の壁面を覆うというインスタレーションが展示されている。
同展の最終日に、会場でシンポジウムが行われる。パネラーには天野、半田をはじめ、第6回目の展示作家であった金氏徹平、そして22年度から新たに始まる企画展のキュレーターのひとり田中正之(武蔵野美術大学教授)を迎える予定。


第3回シンポジウム「近代を遠くながめて」
日時: 3月27日(土) 16:00〜18:00
会場: gallery αM(馬喰町)
入場無料・予約不要

http://www.art-it.asia/u/admin_news/JjonHqVmcOiDkE4blLgG
明日開催。

*1:半田真規「August」 - wonderful opportunity*
  http://gtokio.blogspot.com/2008/09/august.html

*2:話はそれますが、ここから考えを展開すると、その意味ではニコニコ動画などがインターコミュニケーション的に(休刊になった雑誌のことではありません)本当の意味で盛り上がっているのかどうかはわからないと思います。観覧者のニーズ(欲望)に合わせたアトランダムな意思の疎通のようなものを、比較的効率良く仮想的に実現するツールとしては優れているのだとは思いますが。