Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

倉石信乃『スナップショット 写真の輝き』(大修館書店)

日本のスナップショットの歴史と現在を明らかにしつつ人やものの姿を瞬時に写しとり写真の輝きに変える現代の写真家達の試みを考察。

http://www.bk1.jp/product/03270240
http://www.taishukan.co.jp/bookline/deruhon/NEWS1006.html
5月下旬発売予定となっています。


>>>監視映像論8 - はてなStereo Diary
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070619#p2


>>>倉石信乃「監視の現在+ウォーカー・エヴァンズの超越」より+α
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080824#p9


>>>「写真の九〇年代──受容の観点から  倉石信乃」より

[略] 若い世代に顕著に見られたグラフィティ的な感覚さえ「大文字のアート」としての写真に対抗的なものとして錯覚された。グラフ雑誌の一部が先鋭化し、また写真の公募展が新規に一定の権力を形成して、従来にない経路で新人が登場した。展示空間でのインパクトを意識した八〇年代的な「ビッグ・ピクチャー」の「単数的タブロー」とは異なる、手元での小さなレスポンスを慈しむ写真が、シークエンシャルで複数並列的なイメージ形式を携えて定着した。
 しかし、そんな親密な好奇心の発露にも、膨大に拡がる無関心の領分から、もの言わぬ反駁が待ち受けている。装われた無関心もまた、ふつうの、ただの無関心に迎撃されるだろう。無数の好奇心の持ち主がとけやすい塊のように「緩やかな自閉の輪」として連なり、「私」と違う誰か、よく似た誰かとの差異を測定・分類し、安堵したり不安になったりしている。他者とのインターコースを曖昧に遮断する社会・国家から表現へのやる方ない反映ぶりを、留保なく肯定する言葉の試技は、滅び去るべきだ。自己と非自己を分別する技術の錬磨を、比喩にもならない「空虚」に載せて送り届ける幾多の産物。それをともかく肯定しておけと唱える要請はしかし、微熱のように続く。

『J-フォトグラファー 新世代の写真家108人の徹底データファイル KAWADE夢ムック』所収
http://www.amazon.co.jp/dp/430997581X
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060528#p4



▽『J-フォトグラファー(略)』は、2000年3月15日発行。
▽「若い世代に顕著に見られたグラフィティ的な感覚」を
 「「大文字のアート」としての写真に対抗的なものとして錯覚」させることを唱導したのは、公募展? 批評の不在?
▽「グラフ雑誌の一部が先鋭化し」=『流行通信』『STUDIO VOICE』『SWITCH』『ロッキング・オン・ジャパン
  『H』『barfout!』『CUT』『CUTiE』『DUNE』『relax』『composite』『トキオン』『プチグラ』…………
▽「ビッグ・ピクチャー」の「単数的タブロー」=八〇年代的。
▽シークエンシャルで複数並列的なイメージ形式=いわゆるブック的な構成(※ブックという言葉自体コマーシャル業界的)。


倉石信乃『反写真論』(オシリス
http://www.osiris.co.jp/pl06.html
http://www.amazon.co.jp/dp/4309903630/

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080521#p2


>>>例えば写真の作り手であれ受容者であれ、
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060502#p10(※http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080824#p16


>>>倉石信乃「インデックス雑感」より
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080304#p4


cinra magazine vol.8
http://cinra-magazine.net/vol.8/
倉石信乃さんのインタビュー記事あり。


◎ FIAT MODES art, photography and digital content studies
http://fiatmodes.blogspot.com/