Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

何か書こうと思ってブックマークしていたはずなんですが、、、

◇ 169 現代美術における写真 −1970年代の美術を中心として− - 京都国立近代美術館 | The National Museum of Modern Art, Kyoto

共催 東京国立近代美術館
会期 12月13日(火)〜昭和59年1月22日(日)
入場者数 6,191人(1日平均213人)


 本展は昭和52年度に開催された「1960年代−現代美術の転換期」に続いて、"写真"というテーマで70年代の現代美術の一側面を照射しようとする試みであった。前者が60年代の日本美術を包括的に紹介したのに対し、本展は写真を通した新しい表現に焦点を当て、同時期の世界の動向と比較するために外国作家をも含めた構成となった。また、70年代の活発な写真表現の応用の背景説明として、写真撮影や写真技法を絵画表現に持ち込んだ英、米のポップ・アートの作品も導入部として用意された。
 60年代の作家が、現実世界の代替物、現実の引用として写真像を多用したのに対し、70年代の作家は根本的に異なる姿勢で写真に取り組んだ。そこにはコンセプチュアル・アート概念芸術)の影響を色濃く見て取ることができる。芸術の基本的構造を問い直し、視覚と認識の関係性、あるいは作家の行為の記録として様々な形で写真を用いて試みられた作品は、芸術概念の根拠への疑問、作家の概念自体を素材として扱うことにおいて一応の共通性を見出すことができる。彼らは映像それ自体を検討課題としたのではなく、写真を彼らが捉えた問題や概念を示す手段として用いた。したがって、その問題意識は個別的であり包括的に論ずることは困難なことである。しかし70年代美術において写真が特徴的な役割を演じたことは、明確に示されたと言える。一方、問題とされなかった作品としての写真映像の質に、作家のコンセプトやメディア認識の深化の度合が明瞭に反映されている事実も面白い発見であった。
 なお本展は、東京国立近代美術館の昭和53年度特別展として企画されたものである。

http://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionArchive/1983/169.html
カタログは古書店でけっこう流通しているので、手に入りやすいはずです。


◇ 06.08. 83年/美術と写真 - papery 前田恭二 MAEDA Kyoji - off the gallery

おおまかに言うと、1970年代を回顧し、ポップ、コンセプチュアルアートの中で、写真が使用されていった現象をたどり直す内容だ。3部で構成されている。まずポップと写真(ハミルトン、ホックニーラウシェンバーグ、ローゼンクイスト、ウォーホル)。次に日本人作家(畦地拓治、今井祝雄、河口龍夫、小本章、野村仁、山中信夫など17人)。最後がコンセプチュアルアートと写真で、バルデサリ、ベッヒャー、バーギン、ディベッツ、ハーケ、コスース、クルーガーにフルトンやロング、さらにギルバート&ジョージまで取り上げている。ただし明確な限定が存在している。「美術家」による写真の使用だけを扱い、「写真家」による仕事を美術の枠内で取り上げるつもりがなかったことだ。<本展は写真家の写真による展覧会ではなくて、美術家による写真をとり入れた作品展である>。そう巻頭の論考で、藤井久栄は書いている。また、<美術家と写真家との区別を問われれば、素人と玄人の違いとでもいおうか。ここでの美術家とは写真を利用しているだけであるから>とも藤井は言う。当時の写真と美術をめぐる国立館の意識を物語って興味深いが、この展覧会、写真界での評判はかんばしくなかったようだ。


 「美術手帖」12月で、写真欄を担当していた飯沢耕太郎は3点を挙げて、順々に批判する。まず70年代を扱うのなら、ポップアートの部は不必要ではないか。次に日本作家の数が多すぎる。日本作家の作品は一部を除いて弱く、<写真映像と実物(現実)との落差から生じるトリック的なめくらましの効果を追掛けることに終始していることからも生じているに違いない>。最後に「写真家」による「現代美術」的なアプローチを外したことに、批判の矢を向ける。藤井の<素人と玄人>という言い方に対して、<一つのメディアを使用することに、「素人」も「玄人」もまったく関係ないはず」と正当にもかみついている。そして具体的には、杉本博司田村彰英山崎博シンディ・シャーマン(!)ら「写真家」たちの作品と「美術家」たちの作品との間に質的な差異があるならば、その差異が明らかにされなければならないし、そうでないならば、<一種のセクショナリズムを感じざるをえない>とコラムを結んでいる。ちなみに同誌は当時、ほかのジャンルの時評欄を設けており、写真欄もその一つ。飯沢は1年間担当し、その時評は『写真の現在 クロニクル1983−1992』(1993年、未来社)の巻頭に収録されている。今日まで続く時評的な活動のスタートはこの年のことだったようだが、ともあれ「現代美術における写真」展に対する最大の違和感は、結びに記す<一種のセクショナリズム>にあったのではなかろうか。「アサヒカメラ」に目を転じると、桑原甲子雄の展覧会評が載っている。桑原は世代もあるのか、ラウシェンバーグやウォーホル、ホックニーが面白かったというのだが、やはり美術と写真の「差別」をかぎとり、写真が美術でない保証はどこにもない――と書いている。


 「現代美術における写真」展は、写真関係者に排除や差別を感じさせたようだ。その感覚の前提にはまず一つ、当時はいまよりも美術、写真というジャンルの枠組みは強かったという事情があるのだろう。飯沢がシンディ・シャーマンを「写真家」の側に組み入れ、今日の感覚では妙な感じがするように、そもそも区別するのは難しい。スーザン・ソンタグ『写真論』が言うように、同列に論ずべきジャンルでもないわけだが、もう一つの前提は、そのソンタグの翻訳にも関係する。写真界の側が違和感をもったのは、おそらく写真は現代美術と交錯するようなジャンルとなり得る、という自負を強めていたからではなかったか。実のところ、日本の写真界は“写真論の季節”を迎えていた。きっかけの一つは79年、ソンタグの翻訳で、そのあたりを契機に、写真をめぐる論説が目につくようになった――と、飯沢は「美術手帖」7月号の時評に記している。例としては西井一夫『写真というメディア』、三浦雅士『幻のもうひとり』、多木浩二『眼の隠喩』を挙げているのだが、実は大きな役割を果たしていたのが、三浦の表題エッセーの初出誌でもある、大島洋を中心とする「写真装置」誌だ。80−86年の刊行で、83年4月には第7号「写真論のパラダイム」を刊行している。通算12号の中でもかなり厚くなっており、飯沢の時評が写真論の高まりに言及したのも、この7号を受けてのこと。そういうなかで、東京国立近代美術館「現代美術における写真」展が開催されたわけで、その「美術家」限定のスタンスに対して、飯沢や桑原が不快に思ったのも無理はなかったように思える。


 では現代美術の側は、この展覧会をどう受け止めたのだろう。もっと探せば反応を見つけることができるはずだが、さしあたりよく分からない。ただし、70年代末からの“写真論の季節”を基本的に共有していたことは間違いないようだ。「美術手帖」は78年12月号で「写真の座標」、80年3月号で「美術に拠る写真、写真に拠る美術」という特集を組んでいる。前者は写真に挑発性の回復を、という程度の趣旨だが、後者は60−70年代美術における写真の使用をめぐって、<客観的な眼=写真が、肉眼を前提として存在する美術の表現形式のなかでどのような展開を示すのか>と問いかけ、山崎博、山中信夫、ディベッツ、ベッヒャー、ヒラードらの作品を紹介している。また、峯村敏明の優れた写真論「存在にさす移ろいの影」が掲載されたことでも記憶されてよい(後に05年、水声社刊『彫刻の呼び声』に収録)。関心のありようとしては「現代美術における写真」展と先取りする内容だ。さらに81年3月号では、特集「写真家名鑑 海外編−写真史の101人」。力が入ってきていたわけだが、さて肝心の83年、同誌はどういう風だったかというと、すっかりコンセプチュアルアートと写真などという話は消し飛んでいる。ニュー・ペインティング旋風が上陸したのだ。82年10月号に「ドクメンタ7」のレポートがあり、ビュラン、アンドレ、グラハム、ボイス、ルウィット、河原温らと、クレメンテ、バゼリッツ、キア、ロンゴらの作品が入り混じっていた様子が伝えられている。ところが83年に入ると、雑誌として大きく舵を切ったふしがある。年間を通じてシュナーベルバスキアその他、日本からは横尾忠則が大きく扱われる。写真入りでメアリー・ブーンの来日が紹介されてもいる。「現代美術における写真」展が開かれ、飯沢の批判が載った83年12月号の特集は「ミニマリズムから表現主義へ」。ニュー・ペインティングの歴史的な正当化を図ったものか。その巻頭に寄稿した藤枝晃雄は「横尾がゆくべき最適の場所は予備校のデッサン室」などと罵倒を浴びせているのだが、少なくとも「美術手帖」の読者にとって、「現代美術における写真」展がどの程度のインパクトを持ちえたか、これは厳しいものがあったように思える。


 83年のトピックとして、いま70年代の美術における写真使用を回顧する展覧会とその周辺を振り返ってみたが、すでに触れた通り、“写真論の季節”を担ってきた「写真装置」誌が第7号「写真論のパラダイム」を刊行したのもこの年だった。1926年から65年、中井正一から三浦つとむまで12本の写真論を再録し、海外の未邦訳文献11編の梗概も収める。日本編はのちに再構成・増補した形で東京都写真美術館叢書『再録 写真論』(99年、淡交社刊)となった。未邦訳文献の中には、バルト『明るい部屋』が含まれている。ちなみに「美術手帖」誌81年3月号に「ロラン・バルトの写真論」という一項があるが、そこではまだ記号論的な一面しか触れられていない。『明るい部屋』が多大な影響力をふるうようになるのは、83年以降なのだろう。ともあれ極めて充実した誌面だったわけだが、しかし、大島洋のあとがきは悲観的だ。15年前の初個展――60年代末、実は日本におけるコンセプチュアルアートの先駆と評されてもおかしくなかった「ひかり」展と、それに対する写真誌の時評の一言<この写真展は、とりあげるにあたいしない>を振り返り、19世紀から1983年の現在まで、<「写真批評」は寸分も破綻することなく、この一行のレベルと原則の姿勢を崩さないでいるのだといってよい>と書きつけている。“写真論の季節”のピークに立ちつつ、ほとんど先行きを期待してもいないかのようなのだ。実際、この年の「美術手帖」誌はもはやニュー・ペインティングしか眼中になかった。何だかすごい話なのだ。今日では、いくらけなしても構わない程度に思われていそうなニュー・ペインティングにしても、そこに写真とのひそかな結託が潜んでいることは「photographers' gallery press」5号の中の脚注で、倉石信乃が指摘している通りだが、こうしたすれ違いを経て、90年代に入るころになると、美術と写真の交錯は一気に全面化しはじめる。議論の場、制度的な枠組みは別々のままで。80年前後の議論がもう少しかみ合う形で続いていたら、という感もなしとはしない。

http://www.pg-web.net/off_the_gallery/papery/2007/Jun_2007.html#bijututoshasin
1983年にまつわる↓他の記事も興味深いです。要再読。


◇ 06.08. 83年/美術と写真 - papery 前田恭二 MAEDA Kyoji - off the gallery

06.08  1983年/口上
06.08.  83年/美術と写真
06.08.  83年/観測
06.08.  83年/日常
06.08.  83年/interlude
06.08.  83年/NY
06.08.  83年/風景

http://www.pg-web.net/off_the_gallery/papery/2007/Jun_2007.html#kokujou