Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

畠山直哉さんのトーク集『話す写真 見えないものに向かって』が発売中です。

>>>畠山直哉『話す写真 見えないものに向かって』(小学館

カメラを通して世界と向き合う写真家畠山直哉による「話された写真論」をまとめた本書は、考える写真家による、写真のはじめから、これから先の写真表現にまで考えを巡らせた写真的考察集である。

http://www.amazon.co.jp/dp/409388112X
刊行が延期され、7月9日発売予定となっています。

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20100517#p5
発売延期が続いていましたが、無事先週末に発売されました。
写真を志す人は必携の本だと思います。


◇ 話す写真 見えないものに向かって 著/畠山直哉 - 小学館

写真家畠山直哉が真摯に語りかける“写真の今”

石灰石鉱山の写真集『LIME(ライム) WORKS(ワークス)』で一躍注目を浴び、いまや日本のみならず世界的に活躍する写真家・畠山直哉。石灰工場、石灰石鉱山の発破の瞬間、都市のビル群などのたぐいまれに美しいプリントで多くのファンを獲得している。撮影対象の面白さと写真の美しさで話題になることの多い畠山だが、いっぽうで「ことばを発する写真家」としても知られている。
 本書は、畠山のことばの中から、講演・講義といった、「話された写真」についてのものを集めて、一冊にまとめる。畠山の〈見ること、認識すること、考えること〉から紡ぎ出された写真についてのことばの中から、さらに、聞き手に伝え、理解を促すことを念頭に考えられた「話し言葉としての写真論」を並べてみると、思考と認識の手段として写真を選んだ、日本にこれまでにあまりいなかった「考える写真家・畠山直哉」が浮かび上がってくる。「写真とは何か」ということを絶えず問い続ける真摯なひとりの写真家の姿である。デジタル時代をむかえて、大きく概念を変えつつある写真について、もういちどきちんと考えるきっかけとなる一冊としたい。


編集者からのおすすめ情報

2010年7月17日〜8月14日まで、東京のタカ・イシイギャラリーにて新作による個展「線をなぞる/山手通り」が開催されます。

http://www.shogakukan.co.jp/books/detail/_isbn_9784093881128
今回の出版をきっかけに、
畠山さんの師である大辻清司さんの『写真ノート』が
復刊もしくは文庫化されると良いのですが。

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>>>復刊希望

http://futakin.txt-nifty.com/blog/files/note_of_photography.jpg
http://www.amazon.co.jp/dp/4568201306

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070529#p10


>>>大日方欣一+光田由里 編『大辻清司の写真―出会いとコラボレーション』(フィルムアート社)

http://www.filmart.co.jp/new/post_40.php
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4845907097.html
http://www.amazon.co.jp/dp/4845907097


◇ 大辻清司『写真ノート』(美術出版社)

写真に関する事物を客観的に綴った論考集。「写真の井戸の中で写真を論じるのではなく、井戸の外から写真を覗くように、いわば一般生活者の立場から写真を眺め、論じてみたいと思った・・・」(以上あとがきより引用)。巻末近くに大辻清司による小作品集、『Kiyoji Ohtsuji : Photographs 1948-1975』 を収録。

http://www.book-oga.com/wimages/ohtsuji_kiyoji.html

思い過ごしていたり見過ごしたりしていた些細なことがらの観察を通して、作り手の動機、送り手の機微など経験の谷間にひしむ創造のあやを写真家の実感、教育者の体感で鮮やかに紡ぎだす。

http://www.amazon.co.jp/dp/4568201306


※過去の大辻清司さん関連
http://d.hatena.ne.jp/n-291/searchdiary?word=%c2%e7%c4%d4%c0%b6%bb%ca

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090526#p4

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>>>すでに「写真」には「建築」が含まれていると思うこと。(畠山直哉
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20051216#p5


>>>junk words(mixiの記述 2004-2005年から)

農民は自然を観賞せず、それを生きる。鉱山や工場で働く
人々もそうだった。全身体的な彼らの活動において、万物
は決められた大切な意味を持って存在していた。それは見
るためにではなく、そこに身を置くためにあった。
畠山直哉『LIME WORKS』より)

畠山直哉さんは、写真を見せた人から
「これはCGですか」と訊かれることが
非常に多いそうです。
インタビューや対談で何度かそう語っています。


「というのは、観客は、これがコンピューター・グラフィックスなのか写真なのかが、わからないといってるわけだから、ぼくの返答次第で、写真がCGになったりCGが写真になったりするということでしょう。『はい/いいえ』によって、その人における写真の表象、意味合いが変化してゆく。これは本当におもしろい事態じゃないんだろうか、と。」
「おもしろいのは、『これCGですか』といわれるのは、最近のことなんですが、それ以前も同じものを見せていたってことなんですよ。そのときには、そんなことはいわれなかった。つまりCGが観客の体験として一般化されてきた。」
国書刊行会『写真との対話』所収
 鼎談「そして写真は続く」より畠山直哉の言葉)


過去の視覚的経験がものの見方や見え方を規定していく、
ということでしょうか。長々と引用する必要もなかったかな。


そういえば、「これはCGですか」の「CG」を
ピカソ」や「ゴッホ」に置き換えて考えてみても、
ありふれた議論になりますが、面白いかもしれません。


A:「これはピカソですか」
B:「いいえ」
A:「ああ、やっぱり。思ったとおりです。
   作風が似てるというだけで凡庸なんですよね」


A:「これはピカソですか」
B:「はい」
A:「ああ、やっぱり。思ったとおりです。
   凡百の作品にはない独特の存在感がありますよね」

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090212#p2