Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

ある時代のある問題設定

◇ “コンポラ”の逡巡:「大辻清司写真実験室」展(谷口雅)より

[略] 70年代の初頭,一世を風靡した「コンポラ」という写真のスタイルが,しかし大辻の想いとは異なった現実逃避的なスタイルとして蔓延していったこと,カメラをあいだに挟んで世界とまっすぐに向き合うという「コンポラ」のスタンスがいつしか画面構成のスタイルとして定着し,趣味の発現へとすり替わっていったとき,「コンポラ」が日常・現状へのなし崩しの肯定(中平卓馬が「コンポラ」を指し示して,「プチブル・リアリズム」と名指したことは正しい指摘であった)へと向かってしまったことを,どう大辻は受けとめていたのであろうか.おそらく,わずかに田村彰英牛腸茂雄を「コンポラ」の実践者と規定することでホコをおさめたのではなかったか.大辻の逡巡は孤独を深めていく.
 写真であること,それは日常の行為そのものであること,美術が非日常的なハレの仕事であることに対して,写真はケの世界,写真は日々の行為,日々の生活に連続し内包された作業である.そして,そのことに伴う困難は,写真においては作品の手前にこそそのリアリティの源があるということだろう.作品評価としう経済主義的な基準が適用されたとき,写真はそのリアルな場面を奪われていく.大辻は実験工房時代の作品が評価されることによって,第一級の作家であるという名誉から遠ざけられた.大辻本人がそれを求めることはなくとも,大辻が正当な評価を得ることは,日本の写真を新しくすることへとつながっていくことである.今回の展覧によって,写真への想いが維持された時代,70年代の作品群が,大辻の主たる作品であることの認識が確立されることを想っている.

『インターコミュニケーション 28号 特集:We are the ROBOTS』(1999年春)所収
http://www.nttpub.co.jp/search/books/detail/100000958
http://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic028/contents_j.html


>>>コ・ン・ポ・ラ

写真家・榎本千賀子さんの日記より重引。
以下、新倉孝雄『私の写真術−−コンポラ写真ってなに? 写真叢書』(青弓社)より。


未組織に身を置くものは、不透明な世相に戸惑い、やりきれないもどかしさにかかわれないことの悔しさが重なって、対岸へと逃げ出したい気分になって傍観者の視線へ走ったのです。いつか、どこかで見たアメリカ的風景はソフィスティケーションをほどこした写真、わかろうとしないで、わかったような気分になってしまう。これがコンポラの土壌であったと思います。お手本があり、スタイルをなぞり、結果を早急に求めたため、袋小路に迷い込んで持続性を断ち切られてしまったのでは、と思います。私は写真を始めてから、重厚なテーマを背負い込んで、その地にドッシリと根を下ろし、「作品」に仕立てて世に問う方法を写真に求めてきていません。どう消化していったかというと、時代認識の温度差は個々に異なりますが、日々の生活のなかでテレビや映画を見て、新聞、雑誌に目を通し、家族、友人とおしゃべりをしては、自分なりに時の流れを把握して、気になる場所へ、気になる時間に出かけ、誰よりも見やすい「特等席(?)」でカメラを通して「…とある場面」に出会うよう心がけていました。それにしてもコンテンポラリーほど薄情なものはありません。はかなく、あっけない消滅の危惧を常にはらんでいます。
http://www.seikyusha.co.jp/books/ISBN4-7872-7198-9.html
http://www.bk1.co.jp/product/2580647
http://www.amazon.co.jp/dp/4787271989

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20051225#p6


>>>清水穣『白と黒で──写真と……』(現代思潮新社)より その1
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080521#p3


>>>本当のところ関口正夫 牛腸茂雄『日々』(1971年4月1日発行)に「黒フチ」付きの写真は何点掲載されているか?
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090722#p2


>>>ソーシャル・ランドスケープ関連おさらい
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090624#p3


>>>スナップショットの時間 〜三浦和人と関口正夫〜@三鷹市美術ギャラリー

いわゆる「コンポラ写真」をかつて批判したプロヴォークの面々(中平卓馬さん、森山大道さん、多木浩二さんら)が、
関口正夫さん、三浦和人さん、牛腸茂雄さんの写真を今改めて振り返ったとしたら、
どういう言葉が出てくるのでしょうか? 気になるところです。
まあ、ある方は現在の土田ヒロミさんを「いつまでも砂数えてるんじゃねえよ」と評したそうですから、
とくに↓以前と変わりないのかもしれませんが。。。


◇ 引用単語辞書「み」 - 語彙の森の辞書

 多木浩二は71年……「日々」(牛腸茂雄と関口正夫)の書評を書いて、「かれらによって選択された態度、あるいは見る方法はあまりに素朴すぎ、調和にみちていて疑問を感じないわけにはいかない」と評している。中平卓馬森山大道との対談の中で「日々」を「あれほど無感動で、爽やかに生きていることが不思議でならない……何ごともないということがすごいというふうに、悪い評論家がいうわけだ……うらみつらみがなければ撮らない方がいい……何かのこだわりがなければ、<日付>も何もないわけだ。ミミズの生活だよ……ああいう写真といっしょにされるのはちょっと心外だね」とコキ下ろしている。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~outfocus/page-mi.htm
「あれほど無感動で、」のくだりは、
森山大道×中平卓馬「8月2日 山の上ホテル」(『写真よさようなら』[1972年 写真評論社刊]所収)での発言です。
「日付と場所」「コンテンポラリーとリアリズム」といったことが議論されていたのもこの頃でしょうか。
写真観の違いと言えばそれまでですが、
プロヴォーク系/大辻清司系/重森弘淹系/……
というふうな各トライブのあいだに横たわる「/」が強化されたのも、
このあたりの事情が関係しているのかもしれません(中平卓馬さんと大辻清司さんの直接の論戦は実現しなかったようです)。
また、いわゆるアレ・ブレ・ボケのプロヴォーク・スタイルではないのに、
プロヴォークの同人だった高梨豊さん(本来なら大辻清司系では?)の立ち位置も気になります。
中平卓馬さんは、高梨豊さんの写真を「世界はこのようにあるんだよな」と手放しで絶賛していたはずですが。。。
ちなみに、高梨豊さんは当時、プロヴォークのひとつ前の世代にあたるVIVOの東松照明さんに、
「“ちょろスナ”やってんじゃねえよ」というふうに言われたそうです。
あと、森山&中平に「荒木きょうかたびら」と呼ばれて批判されていたこともあった荒木経惟さんの
「コンポラ」と呼ばれる写真に対する距離のとり方がどうだったのかも気になります。

      • -


◇ 習慣としてのスナップショット 大日方欣一(写真評論家)
http://www.chukyo-u.ac.jp/c-square/2006/75/kaisetu.html
◇ distance―関口正夫・三浦和人そして牛腸茂雄展@中京大学 C・スクエア(2006年)
http://www.chukyo-u.ac.jp/c-square/2006/75/75top.html
◇ 「distance─関口正夫・三浦和人そして牛腸茂雄─展」シンポジウム - scannersブログ
http://blog.livedoor.jp/scanners_photo/archives/50666535.html


◇ 『こと』に至る『日々』・関口正夫について - JRP荒川流域支部のホームページ
http://homepage2.nifty.com/ARARYU/sub1a24.htm


◇ 関口正夫 牛腸茂雄『日々』
http://www.book-oga.com/wimages/hibi.html
http://www.amazon.co.jp/dp/B000J92YW4

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080915#p2


※過去の大辻清司さん関連
http://d.hatena.ne.jp/n-291/searchdiary?word=%C2%E7%C4%D4%C0%B6%BB%CA